雨谷の庵

[0506] いつかはいい思い出になる (2006/07/29)
※ハナシにならない雑文祭


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 ながらへば またこのごろや しのばれむ
 憂しとみし世ぞ 今は恋しき
    (藤原清輔朝臣)

辛い過去も、今では懐かしく思い出されるものである。だから、今辛いことも
いずれは良き思い出となるだろう……そんな慰めの言葉として詠ったのでは
ないかと思われる短歌であるが、今の私たち夫婦にとってみれば、おのれ清輔の
野郎、人の苦労も知らずに口先だけでのうのうと能天気な言葉をよこしやがって
などと、昔の風流人様を罵倒したくなるような、そんな気分にさせてくれる詠い
様である。
何しろ「昔の辛さが懐かしい」とか言ってやがるのである。
要するにそれは「今はそんなに辛くない、だからまあ、君らも頑張りたまへ」と
まあそういうのんびりしたことを言いたいに違いないのである。
お前ら下々どもは毎日ご苦労なことであるなぁとか左団扇でも揺らしながら、
こっちが炎天下の中、額に汗しながら息子の人を追い回しているのを見て、
「そういうのもいつかはいい思い出になるんでおじゃるよホホホホホ」とか
思っていやがるに違いない清輔という奴は。
くそ、そこから降りてきて子守の一つでも手伝いやがれと、とにもかくにも
主張の声を強くしてみたい、いや強くせねばならぬ、さもなければ人民は風流の
連中に隷属すべきものものとして永劫の時を黙々とせねばならぬ、そんなことは
断じて断じて許さぬと、ここで決意を新たにしているところなのではないかと
皆々様にはその心中をお察し致す次第である。
いや、自分のことだけども。

仕方が無いので清輔の歌をダメなものにして、憂さ晴らしをしておこうと思う。

 ながらへば またこのごろや しのばれむ
 憂しとみし世ぞ 今はピロシキ

辛い過去も、今ではピロシキである。だから、今辛いこともいずれは良き
思い出となるだろう……。
はっはっは。なんだ清輔、そんなにピロシキが好きなのか。しょうがないなぁ。

とはいえ、現実問題として我が家の育児事情は苛烈である。
なにしろ暴れん坊、「悪魔の二歳」という噂が世間でまことしやかに喧伝されて
いることにはうすうすながら気づいていたが、まさかこれほどまでの破壊力を
持った生き物だとは想像だにしなかったというのが本音であろう。

なにしろ、ヤツの一日はまず、空から降ってくることから始まる。
ヤツのベビーベッドには高さ30cm 程の木柵があり、乱暴な寝返りにも落下の
心配をしなくて良いような素晴らしい設計となっている。
そして30cm という高さは、落下の危険性について未だうろんな赤子が、
その柵を越えることを不可能にするに十分なものであり、そして知恵の
ついた普通の二歳児はそれをわざわざ乗り越えるような危険を冒したりは
しないと聞いている。
しかし、ヤツは毎朝それを飛び越え、我々夫婦の眠る寝台にダイブして
きやがるのである。ぐふぅっ。←お腹で受け止めた私の呻き。

次なるヤツの企みは、我々の枕の簒奪である。
何故か最近、ヤツはオレ砦の建設に訳の分からない熱意を燃やし続けており、
我々の枕はそのオレ砦にとっての貴重なる構成資源のようなのである。
オレ砦とは枕や掛け布団、座布団、ぬいぐるみなどの様々な物体を1m 四方の
スペースにみちみちと積み上げることによって形成されるヤツご自慢の建造物で、
ヤツはそれを作り、それの近くでニラニラと笑いながら至福の時を過ごすのである。
しかし、我々も黙って自らの枕を差し出すわけではもちろん無い。
早朝の夢うつつの中、我々は自身の睡眠時間を一秒でも長く獲得せねばならぬという
生き物としての本能的な欲求を満たすべく、この不躾な侵略者に果敢なる
抵抗活動を開始する。寝返りを打ち、脇でガードを固め、両手で枕の端を
固く握り締め、敵の攻略の足がかりを的確に潰すのである。
しかし敵も知恵者である。
枕への直接攻撃が失敗に終わると、今度は容赦なく我々への物理的圧迫を開始する。
頬をぱっちんぱっちん叩き、髪の毛を引きむしり、腹部へ肘打ちを落とし、肩口を
歯で噛み千切る。
この痛みに耐えられる生物などこの地球上に居はしまいとも思われる、それほどに
執拗で陰湿で、まるで我々の急所を熟知しているかのような狙い済ました攻撃。
そのうち根負けした我々が寝ぼけながら枕を明け渡すまで、その仕打ちはえんえん
続くのであった。

朝起きて、出勤のための身支度をしながら鏡の中の自分に目をやると、肩口の
あたりに真っ赤な歯形がついている事もしばしばであるのは、こうした事情に
よるものなのである。
せめて、目立つ位置にだけは噛みつかないようになってくれれば良いのにと、
つくづく思わずには居られない。
首筋とか、隠れないところが赤かったりするとカッコワルイことこの上ない。

そんな朝から乱暴三昧の息子の人であるが、いざ私の出勤時間となると途端に
甘えん坊となる。
どうやら私の出勤時間については既に体内時計で把握し切っている様子であり、
その時間帯になると家の出口のあたりで警戒を始めるのである。
私がスーツに着替えようものなら、その顔に不安そうな色を隠そうともしない。
私の挙動を観察し、少しでも出口に近づこうものなら泣き叫びながら膝下に
取り付き、なんとしてでも私の足止めをしようとするのである。
まあしかし、そうは言っても会社に行かないわけにもいかない。
なだめすかしたり、どけと低い声で脅してみたり、無言で素早くすり抜けたり、
毎日毎日様々な策を弄して、息子の人のディフェンスを突破するのが、私の
日課となっていたりするのであった。
私としても泣きそうな顔で私を見上げる息子の人を置いてけぼりにするのは
忍びない。身を切られるような思いで振り切る毎日である。

こんなとき、息子の人に清輔の短歌を送りたくなったりもするが、左団扇の
清輔の能天気なホホホホ笑いが思い浮かぶので止めておくことにした。
清輔、役に立たないヤツである。
息子の人よ、恨むなら清輔を恨むのだぞ……。

息子の人は捨てられた子犬のように泣き、雨谷の庵は今日も雨。
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管理者:徳田雨窓