雨谷の庵

[0491] 入念な戦略 (2005/12/17)
※クリスマス雑文祭2005


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コートの似合う季節になった。

街の夜には不似合いな、色とりどりの電球が点滅する季節でもある。
夕闇が降りてきはじめると、ビルの隙間風も帽子を揺らすようになる。
この街には人が増え過ぎた。だから男には帽子が必要だ。
他人のことを気に掛けもしない、礼儀の無くなった雑踏。
だが帽子は男のための世界を区切ってくれる。
帽子は風に負けないしっかりとした造りのものが良い。鍔広なら、なお良い。
騒がし過ぎるストリート。だが裏の路地ではもう、夜が始まっている。
冬の夜はコートの表を白くする。取り出した煙草の匂いだけが温かい。
ゆっくりと夜空に薄紫が立ち昇る。

「こんばんわ、エド様」
その声の主はいつの間にか目の前に立っていた。小柄、しかし場違いな燕尾服の見知らぬ男。
満面に貼り付けたような笑みを浮かべ、俺を見上げている。
誰かと会う約束をした覚えはない。煙草の時間が終われば、立ち去るだけだ。
「お、お待ちくださいエド様。話を聞いては頂けませんでしょうか」
妙に馴れ馴れしく、小男はコートの右袖を引っ張った。
「ワタクシは貴方様の願いを叶えるために来たのです」

話を聞くほど暇ではない。
すっかり夜めいたストリートに街灯が点り、その黄色い光が笑い声混じりの喧騒を照らす。
だが人なみに揉まれながらも、小男は傍から離れようとしなかった。
「申し遅れましたが、ワタクシ、こういう者です」
顔の前に出された名刺には二文字だけ「悪魔」と書かれていた。
「お聞き及びかと思いますが、ワタクシどもでは下界の皆様の魂を頂戴する代わりに、
なんでも願いを叶えるという事業をさせて頂いております」
小男は流暢な口調で喋り始めた。
「ただ昔と違いまして、最近のお若い方々はどうもちやほやと育った方が多いせいでしょうか、
魂と引き換えにしても良いという程の、強い願いをお持ちでないという場合が多々ごさいまして、
ワタクシどもの商売も少々やり難くなっているというのが現状でございます」
小男の話に興味は無かった。だが最近の若い連中については、その通りなのだろう。
「そこでワタクシどもとしましても勉強させて頂きまして、このたび新サービスを
開発致しまして、大々的に営業することにさせて頂いた次第で御座います」

小男が言うには、こうだった。
まず、小男と契約を交わす。だが、契約を交わしてもすぐに願いが叶うわけではなく、
そしてもちろん、いきなり魂が抜かれるわけでもない。
魂は一日ごとに少しづつ、小男曰く「30年間抜き続けてようやく寿命が10年縮む程度」の
分量が魔界に送られる。
「その代わりと致しまして、ご契約頂いていない一般の方々の幸運量を1としますと、
ご契約頂きましたお客様については、幸運量を1.0001に引き上げさせて頂きます。
つまり、普通よりも日々0.01%、幸運に恵まれる可能性が高くなるわけですね」
小男は続けた。
「0.01%程度の幸運なんて、とお思いになるかと思いますが、よくお考え下さい。毎日の
生活というものは積み重ねで御座います。昨日までに積み上げた分を元手にして、今日の
積み上げが為される訳で、日々の0.01%の幸運は年数が経てば経つほど、利子が利子を
呼ぶ方式に効いてくるのです。積み重ねた効果は1年で3.7%、10年で約50%。
30年もしますと普通の人よりも約3倍も豊かな人生を送っている計算になります」
小男は「どうです?お得でしょう?」と胸を張っていた。

「なぜその話を俺に?」
悪魔など信じてはいない。この小男の言うこともまったく話にならないでたらめだ。
「先ほども申し上げましたようにワタクシども、この新サービスを軌道に載せるべく
鋭意努力しているところで御座います。そのため、最初にどのような方にサービスを
提供させて頂くか、入念な戦略を立てさせて頂いております。もともと幸運な方が更に
幸運になったとしても、宣伝としてはあまり効果的でない。初期のお客様としては、
あまり幸運でない方が望ましく、また、10年くらい寿命が縮んでも構わないという
ドライな性格の方であればなお望ましい」
小男は小さく咳払いをした。
「失礼ながら、エド様はこの先幸運に恵まれているとはあまり言えないような人生を
お送りになられると、当方の調査で判明しております。しかも、寿命だけは馬鹿に長い。
それに付け加えて超の付くほどのリアリスト、損得勘定を正直にお話すれば必ずやお取引
頂けるものと思い、こうして参上致した次第であります」
小男は、鞄から古めかしい羊皮紙のような書面を取り出した。
「どうでしょう?季節柄、ご自分へのクリスマスプレゼントとしてでも結構です。こちらに
一筆、サイン頂ければ幸いなのですが……」

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コートの似合う季節になった。この街には人が増え過ぎた。だから男には帽子が必要だ。
帽子を目深にかぶり直し、俺はざわめくストリートを後にする。
それ以来、悪魔に出会うことは二度と無かった。

雨谷の庵は今日も雨。
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管理者:徳田雨窓