雨谷の庵

[0479] 無邪気な親切 (2005/07/07)


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もはや老人。

いやしかし、それはちょっとどういうことなのかと、しばらく直立したまま左右に体が
揺れるに任せていたわけである。
そ、そんな目で私を見上げないで欲しい。
最近というか、近頃というか、ここ一年くらいの私の傾向の一つとして挙げても良さそうな
ものとして、ちっちゃな子どもをまじまじと見てしまうというものがあるのであるが、
いやもちろん私は別に幼児をちゅうちゅうしてみたいとかいうようなヘンテコさんという
わけでは断じてないわけであるが、ちょっと待ってください本当にそんなロリだとか
ショタだとかいうらしい奇抜な趣味はちっとも持ち合わせていない(はず)なのであるが、
まあとにかくそんな事はどうでも良くて、つまり私を幼児が見上げているわけである。
上目遣いで。うわっ。可愛い。抱き締めてちゅうちゅうしたいっ……いや、いやいや。

私も遅まきながらに子育てとかいうものを始めた関係であると思うのであるが、やはり
他人様の子どもにも何かしらの親近感を勝手に抱くようになってしまっているようである。
客観的なる冷静な理性を唯一のフィルタリング処理として採用した場合に、果たして私の
愛息が世間一般基準における「可愛い」物体に分類されうるのかどうかについては、私の
脳内の巷においてさえかなりの議論過程を経た後に慎重なる裁断を行うべきものに
他ならないような気もしないではないが、いや、別にそんなことをしなくても自分の子ども
くらいはなりふり構わずに「可愛いにょ〜」とちゅうちゅうしてしまえば良いという
主張ももしかすると成り立ち得るほどに日本の民度もかなり最近は高くなってきましたなぁ
はっはっはということにもちょっとした感慨を覚えてしまって大変です。
ていうか、今私を見上げているお子様は他人様のお子様であるからして、ちゅうちゅうする
わけには断じていかんとかそういうことでもあるわけである。

どうでもいいことであるが、私の置かれている状況を適当に簡略かつ端的に言い表すならば、
それは都内のどっかに潜り込まされている地下鉄の車内にて満員とは程遠いながらも座席は
きっちりと埋まっているとかいないとかいう感じの薄暗いガタンゴトンの最中であり、私は
別段体調が悪いとかそういう具合でもないので何気なく吊革に掴りながらのらりくらりと
車両の揺れる様に自身の加速度を委ね続けているだけという、夏の午後にとってみれば
至ってどうということもない平々凡々たる日常風景の一部と化して今日も人として人で
なくても問題無いような存在を人生に刻み続けているかも知れない最中とかそんなことを
読者諸賢の脳細胞内で写実してみれば少しは私の脳内と同期が取れてきてしまって良い感じに
二人はプリキュアって感触に至るかも知れないし至らないと思う。
で、そんな中でその他人様のお子様が、私を貴方を見上げていたとしたら、どうだろう。

どうだろうと問われて咄嗟に何らかの返答をひねり出せたとするならば、諸賢はかなりの
子ども好きであると認定してしまうこと間違いないので注意が必要である。
正直なところ、私は少々困惑していたということをここに日記のような模糊とした記述として
曖昧な感じに記しておこうかと今画策している最中である。
そもそもそのお子様というものが、自分様の子どもとは言わないからせめて顔見知りのお子様で
あったならば、私も何かしらの微笑みちっくな対応でその場を和やかな雰囲気で演出し尽くした
ことであろう。そう、そういうことには慣れているしそこは私ももう30年以上も人間っぽい
振りをして生きてきていたりするかもしれない生物の一種である。どうという事はない。
しかしである。見知らぬ他人様のお子様にまじまじと、そして何かしらの関心を恐らくは
向けられているというこの感覚に似た何か気色の悪い雰囲気は、ちょっと頂けない。
可愛いと思う反面、私の脳細胞のちょっと爬虫類に似た部分がこの場の雰囲気を潔しとして
捉えられないでいるような感じがするのである。
そう、そしてその動物部分的な直観力の方が正解を得ていたということになるのであろう。

「ここ、どーぞっ」
嗚呼、とうとうその言葉がお子様の喉下から解き放たれて、この一般世間が充満する電車の内側に
空気振動の形式でもって的確なる物理現象の支配化のもと、人々の鼓膜から脳髄へその意味信号を
お届けしましたのであった。
そのお子様が何を考えているのかは分からないが、にこにこと笑顔を浮かべながら自らの今まで
座していた場所を空席となし、あたかもそこが私にとって相応しい場所であるかのような的確な
動作でもって私に座れと促すのであった。
そう、上目遣いのあの可愛い視線は、私の人相風体を観察し席に座らせるに値する人物であるのか
否かを冷徹に審査検証する、その眼差しに他ならなかったということだ。
見たところ、そのお子様の年齢は約2歳。
どうやら私は2歳児に席を譲られてしまうほどに人生のステージを登ってしまったようである。

私はもちろん、躊躇した。
私の迂闊なる大脳皮質に意識を集中し、論理的な様々な可能性を考察し尽くしたとしても、
今この場で私がそのお子様から譲られた席に座ることは適切なる大人ちっくな行動とは考え難かった
からである。
しかしながら、何故か私には無言のプレッシャーが襲い掛かっていた。
車両内に何時の間にか充満し始める気まずい雰囲気、その中に「子どもの無邪気な親切を無駄に
するな」という、他人事だからこそ気楽に煽りを入れる人物たちが安易に到達するであろう
結論が無意識下で共有され始めているであろう事は容易に想像の範疇である。
更に悪いことに、そのお子様の隣に座っているその保護者様と思しき人物もまた、私の方に目で
「座れよ」と凄んでいる様な気がするではないか。
座らねばならぬのか。論理的には間違っていても、心情的には正解なのか。
苦悩する私、しかし時間はさほどの猶予を私に与えてはくれなかった。

私にできたのは、精一杯の笑顔と「ありがとう」、そして席に座ることだけだった。
人生で初めて、電車で席を譲られた記録をここに残しておこう。

雨谷の庵は今日も雨。
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管理者:徳田雨窓