雨谷の庵

[0448] ミルクっぷりについて (2004/08/13)


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パピコでも可。

ときどき目にする表現の一つとして「乳臭いガキ」というものがある。
そう、ハードにボイルドに描写された薄汚い風景の中に寂れた砂風を身にまとって建つ、
年代モノの洋風酒場で交わされる会話でしばしば聞こえてくるあの台詞である。
代表的な使い方の例として、読者諸賢は以下のような場面を思い起こすことだろう。

 昼間だというのにその酒場は繁盛している。
 壁際のテーブルから鋭い目を光らせている荒くれ者。
 一日中、どす黒い吐息を床に撒きながら、ブランデーが誘う夢心地に溺れる老人。
 言葉少なながらも、注文にだけ忠実で有り続けるバーテンダー。
 馴染みの客はカウンターでちびりちびりとジンを弄び、他愛の無い話を繰り返している。
 そこへ、一人の見慣れぬ若者がやってくる。
 いかにも余所者でございという異国情緒の服装、世間の風とは無縁に思えるぴかぴかのブーツ、
 そしてそんな若さに似つかわしくないほどに立派な腰のモノ。
 若者はきしむ両開きの扉を無作法に押し開け、無言のままカウンター席に昇り上がる。
 常連たちは不審感を隠さない。若者の背中に不機嫌な眼差しが突き刺さる。
 そんな酒場の意気込みにはまるで気づきもせず、若者は一言呟く。
 「ウォッカを」
 その言葉は、たちまちのうちに酒場を嘲笑と蔑みの渦に投げ込み、カウンターの上では
 引きつった笑いを押さえ切れない常連たちがのたうち回る。
 「聞いたかウォッカと来たぜ」
 「おまえウォッカが何か分かってんのか」
 「乳臭いガキの飲み物じゃねぇ」
 「帰ってママのおっぱいでもしゃぶってな」
 そしてバーテンダーは無言のまま、若者の前にコップを滑らせる。
 なみなみと注がれたミルクが、若者の鼻先でピタリと止まる。

……とまあ、こういう感じに使われるわけである。乳臭いガキというものは。
それはともかく。

私も今まで、この乳臭いガキという言葉を字面から理解していたつもりであった。
ところがである。
自分自身の子供というものを授かってからというもの、私はこの「乳臭いガキ」というものに
対する認識を変えざるを得ないと思い始めている。
嗚呼、正直に告白しよう。私の息子の人が乳臭くて堪らないのである。
赤ん坊というものは、四六時中毎日毎日飽きもせずミルクばかりを飲み続ける生物である。
それは分かっていた。そんなことは考える必要もないくらいに自明な事実である。
しかし、その先にあるものを私は今まで、想像すらしていなかったのだ。
赤ん坊の全身全霊から、沸き立つように噴出している臭気。
恐るべきことに、その臭いは全くもって疑いの余地を挟む隙間も無いほどにミルクなのである。

息子の人を抱き上げたとしよう。
すると、私の視界はミルクの臭いで一色に染め上げられてしまう。
息子の人の、今はまだぷにぷにとしている頬をつついたとしよう。
すると、私の指先にねっとりと絡みつくかのようなミルク色の蒸気があふれ出してくる。
飲むもの全てがミルク、それはつまり、赤ん坊の体内から排出されるものもまた全てがミルクと
いうことに他ならなかったのである。
吐く息がミルクなら、汗もまたミルクである。
口からだらしなく伸びた涎がミルクなら、鼻水から目くそまでミルクである。
小さな排泄物や大きい排泄物のみならず、オナラに至るまで、そしてその微粒子の一粒一粒が
まったくもってミルクなのである。
怪奇ミルク星人、もはやそう呼ぶしか無いほどに、彼はミルクなのであった。
嗚呼、懐かしきかな酒場の仲間達よ。乳臭いガキとはこれほどまでにミルクだったのか。

と、ここまで私なりに必死の思いで息子の人のミルクっぷりをお伝えしようと書き殴って
来た次第であるが、よくよく考えてみればあのミルクの独特の臭気について、それがどのような
ものであるかをまずはご理解頂かなければならないのではないかとも思い始めた次第である。
もちろん、一度でも赤ん坊を育てたことのある人物であれば、私がここまで書いてきた如くの、
赤ん坊の恐るべきミルクっぷりについて、かなり高精度の共感を生じているに違いないと
考察するわけであるが、世の中の全ての人類が赤ん坊育成事業を推進しているわけでないことも
また自明に他ならないわけである。
ミルクミルクと何のためらいも無くひょいひょいと筆を進めることは簡単である。
しかし、赤ん坊から発せられるミルクというものに限って表現の角度を急傾斜させるならば、
それをミルクという三文字のみで書き下すことはもはや侮辱以外の何物でも有りはしない。
そう、私はこのミルクというものを言い表すために敢えて先進気鋭の選択をすべきなのだろう。
嗚呼、どう書けばこの、今、現在、私が、私の、脳裏に焼きついて、離れない離れたくない、
ミルクという、ミルクに他ならない、このミルクの、ミルクっぷりを、次世代の皆々様全てに
理解可能な、さらに目指せば共感に至る道筋となり得るような、礎となるべきの、文字列出力に
よって思考置換可能な状況を、雰囲気から味覚までのあらゆる脳細胞を、活性化させつつ
ミルクの妖しげなその魅力を損なわない程度に堕落させたような、もっとこう人類の共有無意識に
すら訴えかけてしまいかねない、性的衝動と同レベルにまで墜落しつつ、崇高な神の領域をも
視野に入れつつ、おっぱいおっぱい、絞れば出てくるんだ、だからミルクだよと断言してしまい、
地獄が豪華で投げ込むものである。

 妻「コーヒーにうにうが飲みたくなるような匂いだにょ」

そっ、それだ。

雨谷の庵は今日も雨。
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管理者:徳田雨窓