雨谷の庵

[0441] 書きたいこと (2004/06/27)


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言葉なんてしょせん飾りですよ。人類様にはそれがわかっとらんのです。

人類が生産している文章というものについて、自発的な姿勢で書き綴っている場合と他人による
何らかの指示のもとに書き下している場合という分類がありそうな気がするのだが、もしもその
分類を採用頂いたとして、どちらの文章の方が多いだろうかということをつらつらと想像して
みても、まあ想像するだけかなり無駄なのだが、おおよそ世界全体の文章の埋め尽くされ方に
関する量的知見というものを持ち得ない限りにおいて、前提として採用頂いたその場合分けに
ついて定量的な何らかの結論を得ることは恐らく難しいんじゃなかろうかと言っても良いのかも
知れないとお茶を濁しておこう。
それに例えば手紙というもの一つを取ってみても、それが自発的なる存在なのか、他発的なる
存在なのかを判別することそのものが非常に何がしかの複数の価値観の元で為されることで
あろうし、それらの観の間の重み付けいかんにより結論が大きくぶれるのは当然のことだろう。
そもそも人間の自由意志というものが本来的な意味での大いなる自由の庇護下にあると
空想するのはもちろん構わないのだが、しかしそこに何らかの外部的要因を見て取ろうと思えば
それもまた可能なことなのであって、そうした可能性の一つ一つを取り上げて
「彼は洗脳されている」だの「マスメディアの主張をなぞっているだけ」だのと批判を行って
みることも出来るわけで、こじつけに近い論法までも駆使するならば、全ての文章は何らかの
他発的な動機に基づいてのみ生産され続けていると言い切ることも不可能ではないわけだ。
更に言えば、ある種の価値観、例えば遺伝子の囁きであるとか前世からの因縁であるとか、
全知全能なる唯一の何かであるとか、そういうものを世界の前提として採用した場合、ありと
あらゆる事象と行動が最終的にはそれらの内包物に成り下がってしまうのであるから、そこに
究極的な自発事象など無いということにも為りかねなかったりはする。
もちろん、その究極という意味での自発の根本である大いなる自由とやらも、そういった
全知全能なる唯一の何かなどと同一的な立場にある概念であるとも見なせなくは無いのだが。

だめ。ボツ。
書きたいことの前振りから、訳のわからない価値観論争を自演し始めて脱線し過ぎ。
もう一度最初から。

人類は進化の頂点に居るという考え方がある。
それは実に根拠不明の考え方なのではないかと、私個人は時々思っていたりもする。
例えば、別に地球上の生物の進化というものが、人類を生み出すためだけに起こった現象では
ないだろうという漠然とした思いがあるし、また、今後人類よりもより環境に適応した知能を
持った生命体が出現しないとも限らないだろうし、それに人類の危機回避能力にもそれなりに
限界というものはあるわけで、ある日突然滅んでしまうなどということもリスクとしてはかなり
小さいだろうとは言え、完全に否定できるほどのものでもないのだろうし、そういうことで
もしも人類が滅びてもその先の未来に生き残った生物達はやっぱり無駄に進化し続けて行くの
だろうという見方がごく自然なわけで、だったら進化の頂点ってそもそも何よ?という議論を
まずは行う必要があり、地球上で最も栄えたからだとか、個体数が多いからだとか、寿命が長い
からだとか、やっぱ文明でしょとか、そういうなんだか基準と言うにはあまりにもお粗末な
お題目ばかりが取り沙汰されてしまうわけで、だったらそもそも進化という言葉自体が実は
生物の歴史に当てはめるにはかなり浅はかなものだったのかもしれないなぁと思い直してみたり、
じゃあどんな言葉を生物達のこの変化の過程に当てはめるべきなんだい?と尋ねられてもそれは
それで困るんだけれども、敢えて言うならば環境への適応と形質変化の積み重ねというような
至極あやふやなものしか思い浮かばない私自身の見識不足を嘆く他無いのであった。
まあとにかく私が言いたいのは、生物というのは単に多様な環境で生きていくために無駄な
変化を繰り返しているだけで、別に「進んで」行こうとか思っていないんじゃないかなぁとか
そういう漠然とした主張なわけであります。
それでもこうして改めて考えてみると、「進化」っていう言葉は実になんというか、見た目的に
キャッチフレーズとして良くできているなぁと感心したりもするわけであります。

やっぱりだめ。ボツ。
なんで私がいきなり進化論についてごたくを並べ立てなきゃならんのだ。
はい、やり直し。

人類は学問する生き物である。
いや、他の生き物様が学問しないわけでは無いのかも知れないが私は知らないのでここではその
可能性については目をつぶることにしたい。
ともかく、人類は何故か学問でもって日々の糧を得ているわけである。
学問にも様々な種類があって、それは大まかに理系と文系という分けられ方をしたりもするわけ
だけれども、しかしながらその目的というか方向性というか、学問が学問足りうる最大の特徴と
いうのはやはり「何かを最適化するのに役立つ」ということなのだろうと勝手にここで断言して
しまおうと思ってみたりもする。
例えば分かりやすい例だと、経済学は社会全体のコスト分担を最適化するのに役立つ。
経営学は会社のコストを最適化する役に立つだろうし、哲学は思考の方向性を最適化するのに
貢献してくれるだろう。政治学や社会学、文学といった一見何の役にも立ちそうに無いものも
あるが、しかしそれはそれなりに何かを最適化する役に立っているのだと思う。
政治学とか、人間感情やメンツも含めた損得を最適化するのに役立つとか、適当に
こじつけとけば丸く収まるだろう。
他にも数学は最適解を求めるツールとしての役割が期待されているし、物理学は物理現象を
最適化のツールとして利用するための方法の提示を期待されている。
こう考えると、基本的に文系は最適解の探求そのものに目的を定め、理系は最適解のための
手段の提供に主眼を置いていることになるのかも知れない。
結局のところ人間というのは生きていくという過程の中で様々な困難に直面するものである。
学問は、その困難を解消する際に無駄な時間を費やすことを極力回避するための指針や、
実際の解決策を提供してくれるわけである。
しかも学問は自分自身で全てを仕切る必要は無くて、仲間が居ればその仲間同士で分野を
分担し、協力し合って困難を乗り越えて行くという使い方も出来る。
つまり、学問分野の詳細化専門化は仲間の存在を前提としたものであり、そこには他者との
協調関係というかなりの善意を前提とした価値観が存在すると言い切っても良い。
いや、むしろ人間の存在にとっては、「善意」という概念で称されている何がしかこそが
基本であり、社会機構の肥大化に伴って現れた、他者依存を前提とした「悪意」的な行動
様式こそが応用的なものであるといえるのかも知れない。
悪意は善意なしには存在し得ないのに対し、善意は善意を仮定しなくても存在し得る。
善意は悪意の出現によって概念化され、価値観の一つに成り下がったに過ぎない。

……言いたいことにちょっと近くなったけれども、やっぱり何だか話が大きくなり過ぎて
いやしませんか。
嗚呼、こんな時だからこそ気の利いたことを書こうとか頑張ってみたんだけれども無駄で
ありました。慣れないことはするもんじゃないよ。
もう、あきらめました。文才の無い奴でごめんなさい。手短にすませます。

生まれておめでとう。

雨谷の庵は今日も雨。
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管理者:徳田雨窓