雨谷の庵

[0437] 撫でると寝てしまう (2004/06/05)


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戦わなければ、眠りにつけない。

暗闇が訪れると、ヤツは音も無く忍び寄る。
我が人生最大にして最強の悪魔とでも呼ぶべき、ヤツが来る。
ヤツはその透き通るような白い手で私の頬を撫で、闇の中で冷たい微笑みを浮かべて
私を見下ろすのだ。
何度も何度も、その手は私の頭に触れては離れ、離れてはまた触れる。
眠ってはいけない。
人間に残されたわずかばかりの野生、それは私の心のどこかでそう囁いている。
そう、眠ればヤツの思う壺なのだ。
しかし悪魔の手は長く、私はその狡猾さから逃れる術を知らない。
いや、もし知っていたとしても私の別の部分がその魔の誘惑に屈してしまうのかも知れない。
それほどに、ヤツの闇へのいざないは私にとって甘く柔らかな心地良さを押し付けようとする。
無意識の何か、子供の頃の記憶とでも言うのだろうか。
セピア色をした懐かしい感触が、私の視界を徐々に闇夜のそれから、常に揺らぎ続ける別の
世界へと陥落させようとしているのである。
もう一度、私は歯を食いしばり、睡魔という名の呪縛を振り払おうとした。
しかし、それはもう既に空しい努力だったのかも知れない。
何時しか、私の意識は闇の風景を途切れ途切れにしか再生しなくなっていく。
小刻みになってしまった記憶という鏡の断片の中で、ヤツは満足げな笑みでこう呟いていた。
「寝たか」

私は、彼の額からそっと手を離した。
愛しい夫の寝顔が、静かな寝息を立てて布団のうねりの中に埋もれている。
ここ最近、夫は疲れているのだろうか、寝具に入るとすぐに眠りについてしまう。
私はといえば逆に、お腹の子がこの時間には動き始めるのでなかなか眠りにつけない。
夫はそれを気にしているのか、私が寝るまでは起きていようと無駄な努力をしている。
だが、しかし。
夫には弱点があることを私は知っている。
頭を撫でると寝てしまう、夫はそういう人なのだ。
主婦の私と違って、夫は明日も仕事である。
遅くまで起きているというのは、あまり好ましいことではない。
眠ることができるのであれば、早めに寝るに越したことは無いのだ。
だから私は、毎晩のように夫の頭を撫でる。
撫でながら私は問う。眠くなりましたかと。
夫も最初のうちははっきりした声で「眠くないよ」と応えるのだが、そのうち段々に声が
小さくなり、最後には聞き取れない意味不明の音声をもごもごと口にするだけになる。
やがてそれは規則正しい寝息へと変わり、私の最後の日課が終わる。
結婚したばかりの時は、夫のいびきの音の大きさに驚いたものだが、耳鼻科に通うように
なってからはそれも治まっている。
あまり寝言を言うような人でも無いのか、寝てしまうととにかく静かである。
昼間は踊ったり歌ったりとかなり騒がしい人なので、余計にそう感じるのかも知れない。
しかし、今夜は少し違っていた。
「動物を数えるよ……」
突然、夫が意味不明な言葉を口にしたのだ。
「でもね、二通りの数え方があるんだ」
夫の寝言である。
そもそも夫の寝言は珍しいのだが、これほどはっきりとした寝言は初めてだ。
「だから数えるのを止めるよ」
どことなく子供っぽい声色と、幼い口調。
子供の頃の夢でも見ているのだろうか。
ほんの少し、夫の別の顔を発見した様な気がした。
今夜は良い夢が見られるかも知れない。
おやすみ。また明日。

ヤツの呼吸音が、規則的なソレに変化した。
そう、私はこの時を待ちわびていたのだ。
古の忍者が編み出したとも言われる秘術、狸寝入り。
よもや私がこの技を使っていようなどとは、お天道様でも気づいていないに違いない。
夜だが。それはともかく。
自らに暗示をかけ、敵の術中に落ちたかのように迫真の演技でもって偽装する。
それこそが狸の真骨頂であることは言うまでもないだろう。
あまりにも暗示を強化し過ぎて、意味不明な言葉を口走ってしまい、危うく術を
見破られるかとも思ったが、運が良かったようだ。
寝言か何かだと、ヤツも勘違いをしたのだろう。
これで今日は思う存分に、ヤツの寝姿を観察することが出来ようというものである。
何しろヤツの呟く寝言はまさにこの世のものとも思えない、素晴らしい娯楽である。
それを聴くためならば、何を犠牲にしても惜しくはないとすら、時に思う程である。
しかしここ最近はヤツの撫で撫での術に敗北していたため、すっかりその楽しみを
味わうことができないでいた。
ヤツめ、前に私がその寝言をあちこちで言いふらして回ったことを根に持っているの
かも知れない。
寝言を聞かれたくないがために、様々な手管を駆使しているのに違いないのだ。
「むにゃむにゃむにゃ」
を。早速今日も始まったようだ。
私はそっと起き上がると、妻の人のその声に、聴覚の全てを集中した。
今や私のこの耳は、きゅるるるるぅ〜という妻の人のお腹の鳴る音すらも聞き取れる。
感度良好。さあ、いつでも来い。

 きゅるるるるぅ〜
 「うみゅ」
 きゅるるるるぅ〜
 「うみゅみゅ」
 きゅるるぅ〜きゅる〜
 「うんみゅ〜」
 きゅるきゅるきゅる〜
 「下さいな」
 きゅるる〜
 「左の方れす」
 きゅる、きゅるきゅる?
 「そうなのれす」
 きゅるる〜
 「うみゅ」
 きゅるるるるぅ〜
 「お肉100gなのれす」
 きゅるる?
 「そう、それれす」

……ええと。
私の妻の人は、お腹の鳴る音と会話するようです。寝言で。

雨谷の庵は今日も雨。
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管理者:徳田雨窓