雨谷の庵

[0432] 立派なドライバー (2004/05/15)


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ぶんぶーん♪

とうとう、この日がやってきた。
嗚呼、分かってはいた。いや、分かっているつもりであった。
少なくとも、いつかはこんなことになるだろうと、予想はしていた。
もちろん、全知全能であろうはずも無い私たち凡百にとって、未来の一寸は全てが暗い暗い
闇夜のようなものであると理解はしている。
しかし、その闇のようなものが全く見通せないわけではないし、そしてその見通しを念頭に
人生をより低リスクに送るための事前の努力を、私は怠っていないつもりであった。
しかし、現実という名のただただ冷淡で歯車のような光景は、私の目の前にただただ機械的な
手続きを経るだけでもって、次第次第に周囲に広がり近づいて来てしまうものである。
いつもそうだ。歯車はただ回っているだけなのだ。

そう、その日は薄暗い曇り空だった。
夕をやや過ぎた刻限に独特の、紫がかった霞んだような薄闇がそろそろと世界を包み込み
始めていたのをはっきりと覚えている。
折りしも何かを暗示するかのように、季節外れに冷たい小雨が黒いアスファルトをまだら模様に
塗り分けようとしてさえいた。
それは来るべき梅雨の気配とはまた違った趣の、晩春の匂いとでも呼べるような何かを
足元から立ち昇らせ、その上を行き交う人込みの隙間に詰め込んでゆくのだった。

私は不安を隠しもせず、どことなくそわそわと駅前の路地に立っていた。
『お迎えにいくにょー』
手に持つ携帯電話の無機質な画面には、そんな呑気な文字面が並んでいる。
私が心の底から愛してやまない妻の人からのメッセージである。
しかし、その意味は実に深刻である。
何しろ、妻の人は車で迎えに来てくれるというのである。
嗚呼、分かっている。
普通ならば、愛妻に駅まで迎えに来てもらうなどという贅沢を小躍りしながらででも
喜ぶべきなのだろう。
しかし一つだけ念頭において頂きたいと、私は切なる懇願をも辞さない覚悟で書き足すので
あるが、妻の人は今日、車の免許を取得したばかりなのである。
つまり、免許取たてまさに当日とかいう、非常に恐ろしい存在なのだ。

私の胸中を察して欲しい。
嗚呼、どこかで事故を起こすのではないか。
妻の人はあまり運動神経の良い方ではない。いや、むしろ運動音痴とも言い得る才能である。
運動神経の良し悪しは車の運転にはあまり関係無いと、頭では理解しているのだが、どうにも
妻の人の日頃の、のたくたとした様々な動きっぷりを間近で見ている身としては、その
運転の有様もまた同じように鈍重なものであるように思われてならない。
それにである。交通事故というものは何も自分の操作ミスだけで起こるとは限らない。
いくら自身の運転操作が完璧であっても、他の車に追突されるという事態は防ぎようがないし、
それに何もぶつかるのは車ばかりとは限らない。
道行く人々との接触事故や、道端の電信柱への体当たり攻撃なども考慮してしかるべきだろう。
もしもそうした事態になったとしても、妻の人さえ無事であればなんとでもなるのだが、
しかしその妻の人からして現在は妊娠中の身である。
ちょっとした事故だったとしても、お腹の中の新生命体に与える影響を考えると身の毛が
よだつというものである。

神様、どうか妻の人が無事にここに辿り着きますように。

しかし私の予想に反して、妻の人はあっさりと現れた。
もっさりとした形の私の愛車が道端にのそのそと停車する。
前後には例のごとく緑と黄色の初心者マークが厳かに取り付けられており、妻の人の存在が
脅威そのものであることを周囲の人心に植え付けんとしているようだった。
私はすぐさまに助手席に乗り込んだ。
「ど、ど、どうでしたか。大丈夫でしたか」
慌てたように問う私とはむしろ対照的に、妻の人は落ち着き払っていた。
「だいじょびにょー。漏れっち安全運転にょー」
私がシートベルトをしたことを確認しながら、妻の人は再び車のギアを「D」に入れた。
我が愛車は何事無かったかのようにするすると道端を離れ、そして帰宅で混み合う
車の群れの中に滑り込んで行くのであった。

なんと、驚いたことに妻の人の運転は機敏であった。
まず、初心者にありがちな加速の鈍さというものが感じられない。
むしろ「この車、加速し過ぎにょー」などと、ぶつくさ文句を呟く程である。
どうやら、教習所で使わせてもらっていた車よりも我が愛車の方が加速が良いらしく、
その操作感の違いが今ひとつ気に食わないご様子である。
右折左折の際にはこれまた機敏に、左右確認のために首を振る。
もしかしたら実際には見ていないのかもしれないが、それでも首の振りだけは一人前である。
車間も適切で恐怖を感じないし、道幅に対してほとんど真ん中を走っているので、左右に
当たる心配もしなくて良さそうである。
初心者らしさといえば、律儀に法定速度を守っていることくらいだろうか。
私はホッと胸を撫で下ろすのであった。
自動車学校に通うこと約3ヶ月、学校の先生方は妻の人を立派なドライバーに育て上げて
頂いたようである。今更ながらに、感謝の念が沸いてみたりもする。

帰宅の途上、気がつけばすっかり辺りは夜である。
車のライトが小雨の光条を暗闇に散りばめ、そのきらきらとした粒の向こうには道行く車の
列と街の明かりが交錯して夜空を彩っている。
私は助手席でくつろぎながら、運転する妻の人の横顔を心行くまで眺めるのだ。
ちょっとしたドライブといった風情である。

 私「ところで一つ言っても良いですか?」
 妻「何かにょ?」
 私「そろそろワイパーを使った方が良いと思います。雨で前が見え難くなってますから」
 妻「……」
 私「ええと、見え難いと危ないですよ」
 妻「……ワイパー?」
 私「ええ。ワイパーです。雨滴をぬぐい取る、例の小粋なヤツですよ」
 妻「……」

しかし妻の人は黙ったまま、ハンドルを握り続けている。

 私「もしかして、ワイパーの使い方が分からないのですか?」
 妻「ち、違いますにょ」
 私「ハンドルの横にあるレバーを下に倒せば、動き始めます」
 妻「にょ。そ、そんなの言われなくても分かってるにょ」

そして、妻の人は思い切り良くレバーを下げた。
何故か、右ウインカーが点滅した。

雨谷の庵は今日も雨。
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管理者:徳田雨窓