雨谷の庵

[0430] 夢の中へ (2004/05/08)


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嫌な夢を見た。

妻の人は「夢の中へ」という曲が好きである。
好きという感覚とは少々事情の異なるものなのかも知れないが、とにかく彼女が近頃、
最も頻繁に口ずさむ曲といえば「夢の中へ」ではないかと思う。
一時期、何かのTVコマーシャルで「夢の中へ」を流していたことがあり、妻の人は
あろうことかそのコマーシャルのたびに口を揃えて歌うのである。
「るーるるるるっるー♪」と。
口ずさむだけならまだ良い。それだけならばむしろ神か何かに感謝しなければならない。
妻の人はさらに、そのメロディーを口ずさみながらギターを弾く。
もちろん、ウチにはギターなど置いてなどいないから、妻の人のそれはエアギターである。
虚空に左手を構え、右手は何物も在り得ない空間を掻き鳴らす。
眉を八の字にしかめ、細目がちに何も無い場所を見つめる、それは「夢の中へ」の歌手の人の
物真似のつもりであるのかも知れない。私は敢えて問い詰めないが。
そんなコマーシャルが、3月末で終わった。
かと思えば、今度は別のコマーシャルでその曲は流れ始めた。
そして、妻の人はまたもやしかめっ面で見えないギターを胸に「るーるるるるっるー♪」と
絶叫するのである。この一ヶ月、毎日、何度もだ。

そんな日々を送っていたせいであろうか、私はある日おかしな夢を見る事になった。
ある日の朝の風景が、夢の世界の私を取り巻いている。
と、そこに妻の人が現れた。妻の人はもちろん、寝巻き姿である。
そして、その曲が始まる。
「るーるるるるっるー♪」
妻の人は例のメロディーを口ずさみながら、突然にその両腕を上に伸ばし、腰を前後に
揺さぶりながら踊り始めた。
ああ、妊婦なのに。
立派に突き出たお腹をゆさゆさと震わせて、妻の人は「る」を口ずさみながら踊り狂う。
探し物はなんですか、見つけ難いものですか。
そこで妻の人の踊りは変わった。
右手でgood job ! とばかりに勇ましく親指を立て、それを顔の高さから胸元に向けて
リズミカルに振り下ろす。
左手は腰に凛々しく添えられている。そして腰は四拍子の調子で左右にクイクイと揺れる。
うふっふー、うふっふー。
ハワイアンのゆらゆらとした動作を織り込みながら、妻の人が夢見がちに左右に向かって
視線を泳がせる。
そしてクライマックス、「さーあー」の掛け声で妻の人は鶴拳の決めポーズで片足立ちを
したのである。
私は思わず「妊婦なんだからそんな危ないことしないで下さい」と叫ぼうとしたが、
何故か声は出ず、そのまま別の暗闇の中に落ち込んでしまうのであった。

ふと気づくと、私は自分の車の助手席に居た。
どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたようである。
車のエンジンの揺れが初夏の日差しに心地良く、昼下がりの気だるさはもう一度、私を
あの悪夢の中へと連れ込みかねない勢いだった。
「眠かったら、まだ寝てていいにょだ」
妻の人が、運転席でこちらに微笑みかけている。
そうだな。別に無理して起きなければいけないという理由は無い。
私はそう思い直し、あの悪夢を見ないことを祈りながら眠りに着こうとした。
と、ここで私はふと、この私を包み込んでいるこの世界の違和感に気がついた。
そういえば、妻の人はいつの間に車の免許を取ったのだろう。
私の記憶では確か、まだ妻の人は仮免許を取ったばかりだったはずである。
私は慌てて起き上がった。
「ぶんぶーん♪」
そんな私の視界の中で、妻の人は脳天気な声を上げながら車のハンドルを握り締めている。
「あの、免許ってもう取ったんでしたっけ?」
「だいじょびにょー。漏れっち安全運転にょー」
「いやそうではなくて、仮免許だと何か車に練習中のプレートを付けないといけないのでは?」
「漏れっち、ぶんぶーん♪しるー」
「いや、だから」
「漏れっち、ぶんぶーん♪しるのー」
そのうち妻の人は、私が何を言っても「ぶんぶーん♪」としか言わなくなった。
私は仕方なく、自分の足元にあるブレーキを踏むことにした。
車は路肩で停止し、妻の人は何やらぶつぶつと「漏れっち減点、漏れっち失敗した」と
いうような言葉を呟いていた。
私は妻の人に後部座席へ移動するように指示すると、次の生徒が運転席に座るのを待った。
「よろしくお願いしまっちょ」
野太い声が、運転席の中にぎゅうぎゅうと自分を詰め込み始めていた。
見上げるようなマッチョダンディ、彼は自身の筋肉を見せ付けるかのように上半身に
血脈をみなぎらせて、運転席一杯に笑顔を広げて乗り込んできたのだ。
そして、マッチョダンディはいそいそとハンドルを構えた。
「頑張りまっちょ」
「ぶんぶーん♪」
マッチョダンディの声に、妻の人の声が唱和した。
私は何がなんだか訳が分からなくなり、そのまま気を失った。

そして私は揺さぶられる。
「徳田っち、徳田っち」
妻の人の、どことなく助けを求めるような響きの声が私の肩を揺らしているようだ。
目を開けると、自宅のリビングの天井を背景にして、妻の人が私を覗き込んでいた。
どうやら、いつの間にかリビングのソファで寝込んでしまったようだ。
ヘンな夢を見たのは、中途半端な姿勢で寝ていたからだろう。
「徳田っち、漏れっちの赤ちゃんが大変なのだ」
何故か半泣きになりそうな妻の人が指差す方向に目をやると、オムツを履いた赤ちゃんが
二本の足で立っていた。
「もう、立てるようになったのか。子供が育つのは早いなぁ」
私は素直に、その赤ちゃんの成長ぶりを喜んで見せた。
しかし、妻の人の様子はそれどころでは無さそうな雰囲気であった。
そのとき、リビングの隅のテレビから、例の「るーるるるるっるー♪」という音楽が
流れてきた。
するとどうしたことか赤ちゃんは年に似合わない不敵さで笑みを浮かべるではないか。
そしておもむろに両の腕に力を込めると一言「まっちょ」と言い放った。
ああ、私の息子は生まれながらにマッチョダンディだったのか。
半ば呆然とする私の視界の隅で、妻の人は何故か吹っ切れたような笑みを浮かべて
「ぶんぶーん♪」と叫んでいた。

そして私はそこでようやく、本当に目が覚めた。
時計を見ればまだ深夜、妻の人は気持ち良さげな寝息を立てている。
私は暗闇の中で少しばかり首を傾げた後、ハタと気がついて両手を打った。
つまり「踊る妊婦仮免マッチョ幼児」というわけか。
こうして私は、改めて安らかな世界に旅立つのだった。

……と思ったが、朝起きて改めて考えてみるとどこがどういう駄洒落になっているのだろう。
「踊る妊婦仮免マッチョ幼児」で私は何か素晴らしいオチを考え付いていたはずなのだが。

雨谷の庵は今日も雨。
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管理者:徳田雨窓