雨谷の庵

[0423] 人類最後の野生 (2004/04/08)


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その時妻の人は硬直した。

踵を揃え、つま先に重心を掛けたままピンと膝を伸ばし、腰は正確に45度の角度で固定、
背筋は礼儀正しく、胸は誇らしげに、鎖骨の影は健やかに一直線で、肩は緊張感を伴って
後ろ約30度の方向に腕を展開、手首は凛々しく手のひらを地面へと対面させている。
マニアな人ならばワンダバスタイルと呼ぶであろうこの姿勢を保ったまま、妻の人の瞳は
何故かうるうると潤んでしまっているのである。
そのつぶらな視線はどこかに焦点を合わせるということが無く、額には憂いとも脱力とも
つかない微妙な風情を湛え、八の字に垂れ下がった眉尻は何かを我慢してでもいるかの
ように時折微かに震えながら、それでいてその口元は人に知られようはすのない快感を
言葉に出来ないまま、力なく薄っすらと唇を揺らしている。
私がその妻の人の様子に気づいてから既に時は1分程も経過した。
「どうしたのですか」と声を掛けるべきかどうかを迷っていたのは既に30秒ほども前の
過去のお話であり、妻の人はその過去の私については何ら気にかけている様子も無い。
ただただ、声を出さないように細心の注意を払いながら、妻の人はその可愛らしく伸びた
首筋をゆらゆらと揺らすのみなのである。

しかしやがて、妻の人は私の視界の真ん中で再び現実世界の時間軸へと戻ってきた。
いつものように慌しく、しかし愛らしい程にちまちまとした動きっぷりで、なにやら
ぱたぱたと両腕を羽ばたかせている。
「どうしたのですか」
私は再度、妻の人に問わずにはいられなかった。
いやこの場合、例え私のような未熟者でなくとも、この問いを発せずにはおられなかったの
ではないかと思う次第である。
しかし妻の人は何やら妙ににこやかな表情を取り繕いながら「なんでもないにょ」との
一言で私の疑念を払拭しようと試みるのみである。
しかしそれも僅かの間のことでしかなかった。
次の瞬間、再び妻の人が硬直したのである。
ここに至って、私は妻の人の身を真剣に案じる心構えを持つことにした。
何処か体の具合でも悪いのではないかという、一抹の不安がよぎるのである。
何しろ妻の人は身重の身、ちょっとした不調でもそれを見落とすわけにはいかないではないか。

私は重い腰を上げて、妻の人の方に足を向けかけた。
もう少し近くで、詳しく様子を見たかったからだ。
しかしそんな私の挙動に気づいたからか、妻の人の鋭い睨みっぷりが私の方へ飛んできた。
「く、来るなぁ〜っ」
必死とさえ思えるような叫び、それが恐らくは妻の人の緊張の糸を解いてしまったのだろう。
私は聞いてしまったのである。
妻の人の一瞬の油断を掻い潜るようにしてこの世に放たれた忌まわしきモノの産声を。
それは微かにしてひどく隠蔽されたモノのそれであることは確かであったが、しかし私は
この耳でその存在をはっきりと観測してしまったのである。
泣きそうな顔になりながら、再びぱたぱたと羽ばたき始めた妻の人は、一言悔しげに呟いた。
「あうあ。屁ガス出た」
つまり、妻の人はオナラを我慢していたのである。

改めて考えてみるに、オナラは人類最後の野生である。
文明という道具を手に入れてからというもの、人々はその暮らしを日々向上させる努力を
続けてきた。そして読者諸賢も恐らくご存知の通り、人々の生活環境を飛躍的に改善したのは
下水施設の発達である。
人類が生物というカテゴリーを脱すことが出来ない以上、その排泄物を生産し続けるという
その野生は分離不可能なものであった。
高密度化する都市の生活は膨大な量の排泄物もまた産み出し、それは長い間人々の生命をも
脅かす存在であった。
しかし下水設備はそれを、人々の生活時空間の中の、一時的で局所的でしかない存在へと
変化させたのである。
人々の生活から切り離されたその野生の部分は高度に自動化された仕組みの中で無害化され、
それと同時に人々は自らの野生から解放されたと言っても過言ではない。
最早、人類が己の野生に対面するのはトイレの中だけなのである。

しかしオナラだけは違った。
オナラは変幻自在の憎いヤツであるからだ。
重力の作用を利用した、人類文明の至玉たる便器構造を、オナラはいとも易々と突破して
しまうのである。
更にオナラは無色透明、視覚にその感知能力のほとんどを依存している人類にとっての
天敵とも言えるだろう。
オナラは空を飛び、ありとあらゆる隙間を潜り抜け、風と共に移動し、人々にその野生を
思い起こさせるのである。
もしもオナラを何かに例えるならば、そう、忍者である。姿無く風の如くの暗殺者なのだ。
そして何よりも、オナラをオナラたらしめているのはその臭いである。
嗚呼、懐かしきかな人類の野生。
オナラの臭いは、つまり人類が過去に置き去りにしたかったもの全ての代表なのである。

故に、人々はオナラを忌み嫌う。
勿論、ある種の人々は逆にオナラを嗜み、オナラの素晴らしさについて語り明かすだろう。
しかし、そうした特殊な事例を除くならば、ありとあらゆる人類がオナラに対して、
見ざる聴かざる言わざるを決心していると思えなくも無い。
例えば貴方には心当たりがないだろうか。
しんと静まり返った教室、そこで誰とも無く放たれてしまった姿無き暗殺者、その産声を
教室の全ての人類が耳にしたにも関わらず、誰もそのことに触れようとせず淡々と日常を
継続させようとしている、その涙ぐましいまでの光景を。
その時、彼らは人類が人類であるために戦っていたのである。
野生を切り捨て、人類は文明と共に歩んで行く。
その理想の為に、人々は自ら言論統制を課しているのではないのか。

即ち、妻の人の硬直は私に対する言論封鎖の合図なのである。
夫婦生活を営むに当たって様々な決まりが暗黙の内に形作られていくのは結婚生活の常で
あるわけであるが、このたび、我々の間に目出度く交わされたオナラに対する暗黙協定が、
即ちワンダバスタイルであるとそういうことになる。
ちなみに何故妻の人が、その野生たる瞬間に硬直してしまうのかについてだが、妻の人に
依ると「なるべく音を立てずに出そうとしているから」とのことであった。
いや、音が出て無くてもそんな格好をしていたら一目でオナラであるとばれるのだが如何か。
もしかしてオナラであることがバレるよりも音を聞かれる方が恥ずかしいとかそういう
乙女心のようななんらかの理由による行動形態なのであろうか。
謎はまだ、未解決であるがとりあえずはよしとしよう。

ちなみに私は野生の音を躊躇せず解き放っている。
これについて、妻の人は何も言わない。もしかすると、聞こえていないのかも知れない。
どうやら妻の人は日々、野生と戦っているようだ。

雨谷の庵は今日も雨。
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管理者:徳田雨窓