雨谷の庵

[0418] ホットケーキへの想い (2004/03/10)


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ホットケーキを作ろう。

ホットケーキは素晴らしい。
そのふわふわとした生地はまるで母親の温かな感触を私たちに思い出させるために存在して
いるかのようではないか。
表面から立ち昇るしっとりとした淡い湯気の一条一条は、微かに甘さを絡め、それを辺り一面に
解き放っている。
とろとろととろけるシロップの薄い金色は、穏やかな三月の陽射しを受けてにこやかな微笑みを
浮かべてでもいるかのようだ。
それはコクのある塩気を添えたバターと溶け合い交じり合いしながら、昔を想い懐かしむ時に
私たちが奥歯の隅で感じている、あの甘酸っぱさを繰り返し繰り返し湧き上がらせてくる。
嗚呼、ホットケーキ。恋の季節のセピア色よ。
どうして君はそれ程までに私の五感を刺激し続けるのか。

ということで、私はその熱きホットケーキへの想いを押さえ切ることが出来ず、気が付けば
フライパンを右手に、ボールを左手に握り締めていた。
無意識がホットケーキを欲している。
その時の私はまさに、ホットケーキの奴隷とでも言うべき存在に成り果てていたのかも知れない。
情熱の赴くまま、私は小麦粉をボールの中にぶち込んだ。
そしておもむろに牛乳をその上に降り注ぐと、更にそこへ卵を一つ割り落とす。
白と白と黄色と白の、目にも鮮やかな色彩がボールという小宇宙の中で渾然一体のハーモニーを
奏で始める。
そうそう、甘みを加えるのも忘れてはいけない。
駅のホームで人目を気にすることなくチュウをしている若いカップルような、そんな蜜々とした
甘ったるさではなく、生地の膨らみを支えることができる程度のささやかな甘さで十分だろう。
私はスプーンにひとすくいの砂糖を放り込んだ後、ボールの中身を力任せにかき混ぜた。
水分を含んだ小麦粉が次第に粘り気となってボールの隅々を満たしてゆく。

次に私は、フライパンを火にかけた。
程よく熱を帯びたところで、鉄板の表面を料理油で湿らせる。
油はすぐに熱せられて、香ばしい油煙がキッチンに漂い始めた。
そこへ、ボールの中身を流し込むのである。
じゅうじゅうというけたたましい音を立てて、私のホットケーキが徐々に姿を現してくる。
片面にこんがりとした焼き色がついたことを確認し、私は裏表をひっくり返す。
程なく、ホットケーキの上下に火が通り、それは皿に移された。
嗚呼、我が愛しのホットケーキよ。
皿に鎮座するその上にシロップをかけ、その真ん中にバターの欠片を添える。
これで完成……のはずであった。

私がその違和感に気づいたのは右手のナイフをホットケーキに刺し入れた時だった。
ふわふわとしているはずの生地は、まるで父親の頑固な肌触りであるかのように重かった。
表面から立ち昇る湯気は、いや、湯気というよりはむしろ煙に近いそれはあからさまな
焦げ臭さで、辺り一面を汚染し始めている。
とろとろととろけるシロップの薄い金色は、ホットケーキの表面から滲み出た油分で見る影も
無く曇り切っている。
添えものであるはずのバターはその濁り具合に更に拍車をかけ、私たちが都会の空を見上げる時に
いつも感じているあの苦々しさをこれでもかこれでもかと思い出させようとする。
嗚呼、これはホットケーキではない。私のホットケーキは一体何処へ。
私はその場で呆然とする他無いのであった。

と、そこで、ここまで私の一連の行為を静かに見守っていた妻が、ゆっくりと立ち上がった。
妻の人は私の使っていたボールの上にまずふるいを乗せると、そのふるいの中に小麦粉を入れた。
妻の人が軽くそのふるいを揺らすと、ボールの中にきめ細かな小麦粉が粉雪のように降り注ぐ。
ひとしきりふるい終わった後、妻の人は私と同じように牛乳と卵、そして砂糖を入れた。
そして更に、妻の人は引き出しの中から見慣れない粉を取り出すとそれをボールに加えた。
「それはなんだい?」と私が聞いても、妻の人は微笑むばかりで何も答えてはくれない。
ゆっくりと丁寧にかき混ぜられたボールの中のそれを、妻の人は弱火でとろとろと温めた
フライパンの中に流し込む。
長い時間をかけてじっくりと火の通されたそれはゆっくりと小麦色に熟してゆき、それに連れて
ふかふかとした膨らみと、鼻の奥をやさしく刺激する甘みとを漂わせ始めた。

やがてそれはシロップとバターを添えて、私の皿に乗せられた。
そのふわふわとした生地はまるで母親の温かな感触を私たちに思い出させるために存在して
いるかのようではないか。
表面から立ち昇るしっとりとした淡い湯気の一条一条は、微かに甘さを絡め、それを辺り一面に
解き放っている。
とろとろととろけるシロップの薄い金色は、穏やかな三月の陽射しを受けてにこやかな微笑みを
浮かべてでもいるかのようだ。
それはコクのある塩気を添えたバターと溶け合い交じり合いしながら、昔を想い懐かしむ時に
私たちが奥歯の隅で感じている、あの甘酸っぱさを繰り返し繰り返し湧き上がらせてくる。
嗚呼、ホットケーキ。恋の季節のセピア色よ。
どうして君はそれ程までに私の五感を刺激し続けるのか。

ホットケーキは素晴らしい。
ただし、それは妻の人のものに限る。

雨谷の庵は今日も雨。
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管理者:徳田雨窓