雨谷の庵

[0407] おじい様の切符 (2004/01/24)
※ある日突然12人の30代眼鏡のお兄さんが出来た雑文祭


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今日は予定を変更して、眼鏡兄さんのお話を書きます。

お受験お受験と無駄にウルサイ、お受験専用幼稚園の小汚い喧騒に無駄に疲れ果ててしまったかの
ような足取りで、無駄に駅前商店街を行く三上友瑠(みかみともる、女性5歳、独身)。
お受験シーズンの寒い風が吹きすさぶ中を独り、誰が待つでもない自宅に向かうその姿は誰に
見守られるわけでもなく、天涯孤独な風情を小さなその身にまとっていた。
「どうしよう」
お受験が嫌いなわけではない。でも、お受験だけで本当にいいのかという疑問は常にある。
有名名門小学校への道を歩むだけが、正しい人生の有り方なのだろうか。
資産家の一粒種と生まれたからには、誰もが認めざるを得ない生き様を体得しなければならないと
いうことについて疑問を挟む気はない。
三歳の頃までは何の疑問も抱かずに、いやむしろ自身の興味の赴くままにと言った方が適切な程、
自分の為に敷かれたレールの上を走り続けていた。
しかし、それももう限界かも知れないという予感がある。
心のどこかに、そんな自分を変えてみたいという欲求がこみ上げてくる。
右手に握り締めていた一枚の切符が、だんだんと友瑠の心に大きく広がりつつあった。

『プロミスドマウンテン行き』
その妙に周囲から浮き足立った電車は、誰を乗せているでもなく、友瑠の目の前に佇んでいた。
昨日、謎の黒服の女から手渡された一枚の切符、それはこの電車のためのものだったのだ。
「もしも自分を変えたいのならば、これをお使いなさい」
おじい様からの使いだというその黒服の女は、ただそう言い残して立ち去るのみだった。
おじい様が何を考えているのかは分からなかったが、その切符が指し示す謎めいた未来の予感に、
友瑠は自分が次第に心惹かれているのだということを感じ始めていた。
しかし、本当に今までのレールをここで乗り換えてしまっていいのだろうか。
電車の入り口に足を掛けるその手前で、友瑠はまだ迷っていた。
夕暮れのプラットホームに、出発の鐘の音が響き渡る。車掌の指差し確認の声が威勢の良く
夕空に吸い込まれていく。
目の前で、電車の扉の電源が鈍い振動となって目を覚ます。
「行こう、友瑠ちゃん」
不意に明朗とした声が背中を後押ししたかと思うと、友瑠の体が軽々と北風を飛び越えた。
温かく力強い見知らぬ腕が友瑠を高々と持ち上げ、そのまま颯爽と電車の中に駆け込んだのだ。
驚く間もなく、友瑠の後ろで電車の扉が過去の蓋を閉じてしまった。
見上げると、友瑠の傍らにはすらりとした長身の青年が息を切らして立っていた。
「はじめまして友瑠ちゃん」
青年は縁なしの眼鏡のズレを直しながら、柔らかな笑顔で友瑠に挨拶をした。
「僕は三上麒麟(みかみきりん)。君の、お兄さんだ」

友瑠の母は、友瑠が赤ん坊の頃に病気で他界したとおじい様から聞かされていた。
友瑠の父は仕事人間で、常に世界を飛び回っているという。
父が正式に一族に認められて結婚したのは、友瑠の母との一度きり。
だがそれ以外に女性関係が無いなどということはありえないと誰もが知っていた。
「つまり、君には腹違いの兄が僕の他にあと11人いるんだよ」
にこやかに説明を終えた麒麟を、友瑠は呆然とした面持ちで見上げるだけだった。
「おいおい麒麟。可愛い妹を独り占めはずるいんじゃないかな」
友瑠と麒麟が向かい合って座っている席の横でいつの間にか、筋肉隆々とした巨漢が
サングラスを掛けた眼差しで二人を見下ろしていた。
「はじめまして。私は三上佐久也(みかみさくや)。私も友瑠様の兄だ」
むきむきと盛り上がったマッチョなボディが、圧倒的な存在感で友瑠の目の前で蠢く。
「思っていた通り、友瑠様は素敵なレディだ。愛してるよ友瑠様」
照れたように上気した佐久也の分厚い唇が、溢れる想いを押さえ切れずに、友瑠の額に小さな
接吻の音を響かせた。
それが、混乱し尽くしていた友瑠の思考回路のネジをどこかに弾き飛ばしてしまった。
「い、いやぁーっ!」
友瑠は無我夢中でその場を駆け去った。

途中停車を決してしない、約束の山への直行便には、友瑠の他に人の気配を感じない。
揺れる電車の不安定な足場によろめくようにしながら、友瑠は目的すらも分からずにただ
前へ前へと足を進めるだけだった。
そんな友瑠を、遠くから眺める二人組みが居た。
「もしかして、あそこを走っている可愛らしい女の子が、友瑠の君なのかな?杏理」
紋付袴をさらりと着こなし、紐掛けの丸眼鏡を掛けた武士道の男が、茶を立てながらそう言った。
「杏理は……そうだと…思い……ます…」
日傘を差し燕尾服に決め、仮装マスク風の眼鏡で視線を隠した男が、茶の湯を受け取りながら
小さな声でゆっくりと言葉を呟いた。
和服の男は三上遼(みかみはるか)、燕尾服の男は三上杏理(みかみあんり)。
いづれも、友瑠の兄だった。
「我等が妹君は実に愛らしいではないか。お守りせねばという気になるな」
「杏里は……ともっちと…色々…お話……したい…」
ほんのりと漂う茶の香を楽しみながら、二人は友瑠の背中を見送るのであった。

幾つの車両を走り抜けただろうか。
急に走り出したことで息の上がった友瑠は、どことも分からない土地を疾走する電車の車両の
真ん中で、ようやく立ち止まった。
「いったい、なんなんだろう」
いまだ混乱したままの状況に何らかの解釈を試みるべく、友瑠は天井を仰いだが、荒々しく
上下する肩は友瑠の冷静さをかき乱すだけだった。
「お嬢さん、わしの妹を知らんですかのう?」
そんな友瑠に追い討ちを掛けるかのように、友瑠の横から声を掛ける者があった。
歳は30代に見えるものの、どことなく老人の風情を漂わせた、老眼鏡を掛けた男だった。
「わしは三上比奈悟(みかみひなご)、妹はともるたんといいますのじゃが……」
男の言葉を途中で振り切るようにして、友瑠は無言で走り出した。
走りさえすれば、兄が12人という突然に降りかかった有り得ない事態を忘れ去ることが
出来るのではないか、そんな理屈の無い思いだけが友瑠の心の支えになりつつあったのだ。
と、そのとき唐突に、友瑠の背中に向かって誰かが抱きついてきた。
「と、友瑠さん……やっと、やっと会えました…」
病弱な白い肌に印象の薄い銀縁眼鏡を掛けたその男は、友瑠に出会えたことで感極まったのか、
友瑠を力一杯抱きしめたまま、その場に崩れ落ちてしまった。
「僕は三上万里(みかみばんり)、あなたの、あなたの兄で…ぐぼぁっ」
突然、万里は口から血を吐いて倒れ込んだ。
友瑠は、その万里の重みに潰されるようにして床に押し倒されてしまった。
そして、走り続けた疲れに揉み包まれるようにして、友瑠は意識を失った。

「聞いたかお前ら。麒麟と佐久也のアフォどもが可愛い妹を驚かせてしまったらしい」
水中眼鏡を額に乗せてサッカーユニフォームを着た逞しい青年が、二人の男を前に仁王立ちに
腕組みしながらそう言った。
「トモは今、電車の中で迷子になっている」
「早くともやんを探さなきゃな。なら護(まもる)はここから後ろを探してくれ。僕は前を」
暗視スコープを調整しながら、もう一人の男がユニフォームの男に指示を出した。
「銀吟(ぎんぎん)、僕はどうすればいい?」
一見怪盗か何かを思わせる片眼鏡を掛けた青年が、暗視スコープの男に尋ねた。
「司馬(しば)は身が軽いから、窓から外に出て電車の屋根を見回ってくれないか」
「分かった。ともちゃんに万が一のことがあると大変だからな」
彼ら三人は頷き合うと、すぐさま電車の方々へ散った。
そんな彼らを、一人の学生服姿の青年が見守っていた。
「一刻も早く〜っ、友瑠ちゃまが見つかるように、月見が池東小学校応援歌を斉唱っっ!」
黒ぶち眼鏡も勇ましく、三上嘉平(みかみかへい)の歌声が電車に響き渡った。

その頃、友瑠は夢の暗闇でうずくまっていた。
混沌と暗い浴室のような場所、友瑠はぬるま湯の中でぼんやりと二つの膝小僧を抱えていた。
独りぼっち。
寂しさを追い払おうと、友瑠は湯面に父の顔を思い浮かべようとしてみたが、それはゆらゆらと
揺れるだけですぐに消えてしまう。
ただ父の掛けていた眼鏡の輪郭だけが、妙にはっきりと瞼の裏に張り付いているだけだった。
友瑠にとってその眼鏡のイメージこそが、父そのものであるのだろうか。
無機質な眼鏡が友瑠に優しさを差し伸べるはずも無く、友瑠はますます湯船に沈み込むのだった。
おじい様が一体何を考えて、友瑠にあの切符を渡したのか。それはやはり分からなかった。
電車に乗りさえしなければ、友瑠はあの騒々しいお受験だけの世界にいつまでも埋もれたまま、
周りの配慮の無さにただ悪態をつきつつ、悪態をつくだけで、何一つ不自由なく生きて
いけたのではなかったのか。
「それで本当に……良かったのかい?…ともくん」
暗闇の向こう側からだろうか、冷たい彩りをまとった静かな声が友瑠に問い掛けてきた。
「ともくんは変わりたかったのだろう?だから、ここにやってきた。自分の意思で」
そうなのだろうか。いや、そうだったはずだ。
友瑠はぼんやりと、漂う意識の中で自分の身をもう一度省みた。
おじい様の切符のせいではない。それだけで、友瑠が今ここにいるわけはない。
切符はきっかけに過ぎない。友瑠をここに導いたものは、友瑠のその足、友瑠自身だ。
「それでいい……」
闇そのものが微笑むかのようにして、一人の青年の姿が浮かび上がってきた。
魔術を操るかのような黒装束に、全ての視線を遮り尽くす瓶底を思わせるような分厚い眼鏡。
「あなたも、私のお兄さんなの?」
「そう……私は三上智彼(みかみちかれ)。ともくんの永遠の全てを愛している……」
友瑠の周囲から、暗闇が一斉に掻き消えた。

「あ、気がついた」
目を開けると、まぶしい光が友瑠を照らしていた。
光の中で、友瑠の顔を心配そうに覗き込む顔が11人。
それがみんな友瑠の兄だということを、ようやく友瑠は理解し始めていた。
それどころか、友瑠は自分が既にこの一見有り得ない状況を受け入れ始めていることに、
おぼろげながら気付いていた。
「どこか、痛いところは無いかい?」
「さっきは驚かしてごめん」
「疲れてるんだからあまり無理しちゃだめだぞ」
友瑠の意識が戻った途端に、一斉に様々な言葉を口にする兄たちに取り囲まれて、友瑠は
どうしていいか一瞬戸惑ったが、しかし少しだけ、口の端っこに笑顔のようなものを
浮かべることだけはできそうだった。
「おい、今笑ったよな?」
「笑った笑った。可愛いなぁ」
「やだなぁ、僕達の妹ですから、可愛いのは当たり前じゃないですか」
友瑠のぎこちなくも素直な笑みは、すぐさま兄たちの心を躍らせ、辺りは一面の笑顔で
溢れかえった。
「さあさあ、みんな揃ったところでお食事にしましょう」
両手一杯に寿司桶を抱えた青年が、友瑠と輪の中に入ってきた。
「はじめまして私の可愛いともさん。私は三上城幸(みかみしろゆき)と言います」
城幸は鼈甲縁の眼鏡から満面の笑顔を振りまき、一同が揃った輪の中にお寿司を広げはじめた。
「ともさんと、こうしてみんな揃って私のお寿司を食べてもらうのが夢でした」
「城幸は寿司職人だからな、味は折り紙つきだぞ」
思い思いに、12人の兄たちが愛しい友瑠を取り囲んだ。
「友瑠ちゃん」
「友瑠様」
「友瑠の君」
「ともっち」
「ともるたん」
「友瑠さん」
「トモ」
「ともやん」
「ともちゃん」
「友瑠ちゃま」
「ともくん」
「ともさん」
兄たちの声の和音が、友瑠を温かく包み込んだ。
「これから、よろしくお願いします」

いつしか、電車はプロミスドマウンテンに着いていた。
ここから何かがきっと変わる。そんな予感が今、友瑠の中で確信に変わり始めていた。
いや、もう既に友瑠の未来は新しい道を歩み始めているのかも知れなかった。

これは、たった一人の妹を大好きでたまらない、12人の眼鏡をかけた兄たちの物語である。

雨谷の庵は今日も雨。
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管理者:徳田雨窓