雨谷の庵

[0402] 新年の抱負を無駄に (2004/01/05)


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あけましておめでとうございます。ことしもよろしく。

……とまあ、普通に書き始めてみることに致しましたコンバンワ徳田です。
いつも毎年思うことなのですが、というかイベントじみた日程が来るたびに思うわけですが、
例えばメリークリスマス、例えば残暑お見舞い申し上げます、例えば七夕ですねそうですね、
とかなんとかそういう定番挨拶とかいうものがある場合にですね、文章の書き出しやらそういう
ものをですね、定例通りに始めちゃったり含めちゃったりしちゃってもよろしうございますのん?
とかそういう悩みを抱えて夜を過ごしている人が全世界にインド人の数ほどもいるんじゃ
ないのかなぁと時々天を仰ぎ見てしまいたくなろうというものです。嘘ですが。
そんな定例的なご挨拶の最も嫌味っぷりの激しいものの代表格というのがこの、あけまして
おめでとうなんちゃらとかいうものなんではないかとも愚考する次第であるわけなのですが、
そこのところはなんとなく色々と諸説激論してみる暇も余り無いというか、実は私が何も
考えていないだけという正解を取り合えず鼓膜の裏側にでも隠しておきまするわけでして、
これ以上の言い訳はお耳汚し以外の何物でも無いので綴らないことに致しまするのだ。

要するに、あけましてなんちゃらと書きたくないだけなんですが。
あけおめことよろとか、もうちんこにぎったまま太平洋でバンジーしかありえないと思ったりも
してしまうわけです。意味分かりませんが。ちんこのない腐女子は大西洋でも結構です。

……はぁ?

仕方が無いので、今までに私が書いてきた愚文の数々の中から新年そうそうの戯言をわざわざ
貴様らのために抜き出してみてやったのでありがたくバンジーです。びよーん。
それぞれの書き出しと、その愚文の内容を要約したものを、年代順に無駄に並べました。

 西暦2000年「けだし、人間の生きざまは人生です」
 →東京へ引越し

 西暦2001年「世紀を越えてしまったわけです」
 →新世紀だベイビィ

 西暦2002年「明けたそうで、きっと目出度いんだろうとは思うわけですよ」
 →年末年始はヒキコモリいぇー

 西暦2003年「あけましたからめでたいのか、めでたいからあけるというのか」
 →小さい頃からダメでした

本題とは全く関係ないので、以上の調査結果はさらりと読み飛ばします。びよーん。
驚くべきことに、この愚文の数々は4年という無駄に長い年月に渡って続けられているようで
ありまして、それはよくよく考えると非常に紙面の無駄というか、いやそもそも私自身が社会の
無駄というべき存在な訳ですが、というかそんなことは今改めて考えてみるまでも無く自明な
解としてアインシュタインとかに方程式っぽい感じに説明されてしまっていたようなビジョンとか
見えてしまいそうで自分のどっきりさ加減に無限の可能性を信じて賭けて商ってみたくなろうと
言う人は実は電波を受信しているのです。特に俺様が。徳田様が。

よーし、パパ新年の抱負を無駄に語っちゃうぞー。
今年はですね、昨年にも増して私の人生における転換点というか、変わっちゃうのよあはーんな
事情が控えていることが明白なわけでしてね、実に逃げちゃダメだ逃げちゃダメだとかほざく
間もなく現実は次々と世間を荒波と化して襲い掛かる辛い辛い山道を駆け上ったら喉が渇いたと
いうような、まあそういうことを喜びとして万民全てが父親の責務をですね、選挙とかそういう
民主主義的な事務手続きを無視しやがった無法状態を許容すべく戦っとるわけです。マゾめ。
をを、マゾってしまうとは何事じゃ。意味分かりませんが。
ともかく、今年の中盤くらいには父親になるわけですので、今年の抱負は実に分かりやすく一言、
「父親たるべし」を語ればよろしいと皆が肯きまするでする。満場一致でOK?
いやもちろん、離婚とかして更に新しい人生を模索してみるとか、仕事を辞めてハイリスクハイ
リターンな綱渡りに飛び込んでみるとか、浮気してスリル満載の展開を添えてみるとかそういう
様々な提案も世の中には満ち溢れていることでしょうが、取り合えずの私という存在に
つきましては、妻の人にぞっこんでありまして、そのお腹の中の新たなる生命体に関して非常に
愛着のようなものを感じ始めておりまして、密かに父親としての練習を開始してみたりもして
親馬鹿街道まっしぐらでありますることをここでこっそり大公開であります。

 父親としての心得その1:妊娠中の妻の人に無闇に欲情しない

妻の人が妊娠したということは勿論、生物学上の知識からの当然の帰結として種の存続にとって
必要不可欠なる行動が一定時期に渡って採用され続けたことを意味しているわけでありますが、
いやもちろん世界の歴史上にはイエスなる例外も存在し、その例外っぷりが実に2000年以上に
渡って世界の人々の精神活動に多大なる影響を与えているわけですが、しかしながら私ども夫婦が
そのような神秘事例に該当するわけも無く平凡なる過程を経てのみ子宝を授かったわけで、それは
それで実に神秘的であるとも言い得て妙なる事かも知れないわけですが、ともかく私の下半身に
おけるその中央部の一器官というものは既に妻の人に対して、特に妻の人の匂いやら肌触りやら
その一部形状やらといったものに過剰と言い得る程の生体反応を活性化するように調教というか
訓練というか飼い慣らされているというかそういう状況下にあり、それは例え妊娠という事態に
遭遇したところで最早変更仕様の無い改造結果なわけなのであります。
ぶっちゃけ妻の人の裸を見ればちんこが勃つわけですあたりまえなのです。
しかし、しかし、しかしですね、ここからが非常に君たちにとっても私たちにとっても宇宙全体の
何よりも実に不思議なことを私は発見しているのかもしれないと勝手に思い込みますが、どうやら
妻の人の方はそうではなく、なんと私の裸を見てもちんこが勃たなくなってしまったらしいのです。
嗚呼、ちょっと待て。その書き方は非常に例えとして誤解を招きかねない不正確な表現であり、
まるで妻の人が生物学的にちんこであるかのようにも読めてしまうので実に不適切であるとここで
お断りしなければならないわけですが、要するに私の言いたいことは君たちも既にしっかりと
理解しているように、女性は妊娠すると、その、せ、せ、性欲とかいうぶっちゃけた言い方を
すれば性欲だ性欲。性欲性欲性欲が、無くなってしまう人とそうで無い人というのが存在して、
私の妻の人というのはその無くなってしまう方だったというわけでありますびっくりだ。

考えてみればちんこを突っ込む場所であるところのま、ま、ま(略)のその奥底に未知なる
新生命がもりもりと増殖活動を開始しているわけで、そんなところに俺様の臭くて黒くて小汚い
雑菌だらけのちんこをめきめきと差し込むのはどう考えてもよろしくないわけですが、しかし、
そういった生物的な事情を抜きにしても女性の方にも少しは触って欲しいとか舐めて欲しいとか
そういう欲求の方は残っているものだとばかり思っていたのであります。触るくらいええやんかと。
実際、私がかつて遊んだことのあるエロゲーには「らーじポンポン」という、妊婦とHすることが
主目的であるという実に教育的なものが存在し、そのゲームの中に登場している解説役の
看護婦さん(こいつもエロエロだ)曰く、妊婦ともHは出来るし妊婦にも性欲はあるとのお達し
だったのですから、私の知識に間違いは無いはずなのでありまする。
前提が既に間違っているかも知れませんが。ていうか間違ってますが。
しかしながら妻の人は妊娠初期の不安定期にちょっぴり出血してみたり(切迫流産というもので、
流産確定というわけでは無いが場合によっては危険らしい)したので、医者からH禁止を言い
渡されてもいるわけで、その上妻の人も性欲性欲性欲が失せてしまっているとかで触らせても
くれないわけで、私は毎晩ちんこをにぎりしめてバンジーです。びよーん。

今日はいつにも増して下らんことばかり書いてすまんすまん。(←妻にはもう叱られた)

雨谷の庵は今日も雨。
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管理者:徳田雨窓