雨谷の庵

[0388] 残念、メノウは木 (2003/11/14)
※第大回雑文祭


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大気圏から飛び出す度に、俺は一人の男のことを思い出す。
男の名はジョー。ジョー・ハイム。
地球生まれの火星育ち。俺より4つ年上で独身。離婚暦1。
あの頃ジョーは、いつでも火星で俺を待っていた。

「その時俺は思ったさ」
火星の酒場に独特の胡散臭い煙がたちこめているこの店で、ジョーはいつもの赤い火酒を
煽りながら寝ぼけたような眼で俺を見上げていた。
「そいつは昔地球ででかいヤツだった。間違いなく、アレだ…そら、あの、アレだ」
「地球で大きいといえば、なんだろうな。鯨か?」
俺の積荷から一本だけ前借しておいた地球仕込みの琥珀色のスモークを俺が二本指で揺らすと、
それは火星の薄暗い光を立ち昇らせて波立った。
「違う違う違う。そうじゃないんだ。海に居るのは俺に言わせりゃ王者の格じゃねぇ」
「じゃあ、陸のヤツの話か」
「ああそうだとも。ズシンズシンと地面が足踏みで揺れ揺れ回るのが俺の目の前で…ほら」
だんだんとジョーのろれつが回らなくなり始めてくるのは、この酒場ではお決まりの光景だ。
ジョーは右の人差し指をぐるぐると回しながら、その先を目線で追いかけようとして失敗し、
困惑した顔で目を泳がせていた。
「もしかしてそれは鼻が長くて、耳がひらひらしたアレのことか」
「そう、象だ…重くてでかくて…歩くたびにびりびりと家が震えて…それを見る度に俺は…」
ジョーはにかっと黄萎びた歯を見せたかと思うと、眠気と戦いながら言葉を続けようとした。
「分かってたさ分かってた…最初から内心象だと重い噛んで板が外れることってよくある…」
ジョーの額が酒場のテーブルに沈み切ったのは、それからすぐだった。

ジョーが火星に入植民として来た頃、火星にはまだサボテンしかなかった。
大気調整は今でも少しづつ進行中だが、その頃地上にはそもそも水さえ無かった。
火星の地下深くに水が存在することは分かっていたが、それを地表に導くための方法が無かった。
ただ、地球から持ち込まれたサボテンだけが、地下深層水にまで根を下ろして育つことができた。
サボテンと言っても実際にはサボテンとは全く異なる遺伝子操作された新種生命体で、ただ形が
地球のサボテンに似ていたため、サボテンと呼ばれていただけだった。
地球のサボテンと区別する時には火星サボテンと呼ばれたこともあったが、それも遠い話だ。
サボテンから水を搾り出すのは手間だった。
もともと水の少ない土地だから、サボテンはその全てを体組織を形作るのに使ってしまう。
だからサボテンをただ機械的に搾っただけでは、水は一滴も出てこない。
仕方が無いので初期の入植者たちはサボテンをいったん発酵させ、酒という形で水分に変えた。
都合の良いことに、サボテンの発酵過程で二酸化炭素が大量に採れた。
窒素は有り余るほど土中から採取できたから、その二酸化炭素とサボテン酒から蒸留した水とで、
入植者は食料用の植物を育てることができた。
ただそのために水は全て、作物用に回された。
入植者のための飲料としての水はなく、仕方なく彼らは蒸留済みのサボテン酒を飲んだ。
サボテンから作られた赤い火酒、それは地球の酒に比べると臭くて飲めたものではなかったが、
当時はそれしか飲むものが無かったのだ。

だから、その頃の火星の入植者は酔っ払いばかりだった。
火星の事情を聞いて入植を希望するヤツの中に酒嫌いは居なかったし、火星に行けば酒が飲み
放題だからという、そもそもが酔っ払ったような思考回路で気軽に入植を志願する輩も居た。
入植地として用意されたドーム状の基地にはサボテン臭いアルコールの匂いが充満していたし、
そこで育てられた作物も何処となく酒の香りを放っていた。
火星の連中は朝から晩まで、酒の中で生活しているようなものだった。
酒に弱いヤツにとっては地獄のような場所かもしれなかったが、それでも初期の入植者の
ほとんどは特に問題を抱えることも無く比較的健康を保ったまま生活することが出来た。
だがジョーは、その中の数少ない例外だった。
地球で生まれたジョーは、10歳になる前に、両親とともに火星に入植した。
居住区全体が酒場のような火星に未成年が入植してくることは滅多に無かったが、それでも
ジョーの両親はよほどジョーを手放したく無かったのだろうか、火星にジョーを連れてきた。
ジョーと同じような子供は他にも何人か居たし、その頃はまだ特に問題も起きてなかったから、
ジョーの両親の決断を間違いと言い切るのは難しいだろう。
実際、ジョーは成人するまで火酒だけで生活していたのだが、別にこれといって体を壊すような
ことも無かったようだ。
ジョーは地球から来た美人と結婚し、彼女は娘を身ごもった。
しかしジョーが実は不幸な身の上であったことを、ジョー本人はそのとき初めて知ることになる。

娘は地球で出産したい。
ジョーの妻はジョーにそう言い、ジョーもそれに同意した。
酒場のような火星で出産することにそもそも不安があったし、なにより火星の病院より地球の
方が設備も整っていて医者もたくさんいたからだった。
妊娠安定期に入った頃、ジョーとジョーの妻は地球にある妻の実家に向かうことになった。
しかし、地球に向かうシャトルの中で、ジョーは突然原因不明の発作で倒れた。
ジョーだけがすぐさま火星に連れ戻され、病院へ運ばれた。
その後、ジョーは何年も火星の病院に隔離された。
ジョーと同じような患者は少なく、原因を解明するのに時間が掛かったのだ。
ジョーは検査を受け続ける日々を送る事になった。実験動物のような扱いを受けることもあった。
研究の成果もあって発作の原因は突き止められたが、それはジョーにとって辛い現実となった。
火星の火酒で育ったジョーは、火酒無しでは生きられない体質になっていたのだ。
そうしてようやくジョーは退院したが、その頃には火星の状況もすっかり変わっていた。
入植者たちの長年の努力の結果、サボテンに頼らなくても良くなっていたのだ。
年がら年中酒臭かった居住区も、緑豊かで閑静な住宅街になっていた。
ジョーは政府から重度の障害者に認定されていたから支援金を受け取ることが出来、生活に
困ることは無かったが、すっかり変わり果てた火星にジョーの居場所は無かった。
だからジョーは、いつも酒場にいた。
サボテンの消えた火星では、ジョーが生きていくのに必要不可欠な火酒は既に造られて
いなかったが、政府はジョーのためだけに地球の研究所でわざわざ火星の火酒を造らせた。
そしてその火酒は毎月、火星のジョーのもとに送り届けられた。

それが、俺の仕事だった。

「…知ってるか?……残念、メノウは木の化石だぞ……琥珀は樹液の化石…だから時々虫が…」
ジョーのお決まりの寝言が、酒場の床に次々と零れ落ちてゆく。
遠い昔を思い出しているのだろうか、ジョーの目にはいつしか一条の滴が浮かんでいた。
「もう無くしちまった俺の家飼いたかった俺の犬会いたかった俺の妻抱きたかった俺の娘…」
俺が運んでくる赤い火酒、それしか受け付けない体のジョー。
地球生まれの火星育ち。俺より4つ年上で独身。離婚暦1。

あの頃ジョーは、いつでも火星で俺を待っていた。

雨谷の庵は今日も雨。
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管理者:徳田雨窓