雨谷の庵

[0367] 関東の一個残し (2003/09/01)


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離婚届と、それを冷たく見下ろす彼女の人の顔を交互に見比べながら、私は躊躇していた。
どうしてこんなことになったのだろう。

「関東の一個残し」という風習の話を初めて聞いたのは、東京に来てずいぶん経ってからだった。
簡単に言うなら、宴会の席などで出される料理について、関東ではその全てをたいらげてしまう
のではなく、一つだけ皿の上に残しておくのが品が良いということになっているのだそうだ。
これが関西になると、食べ終わりそうな料理はその場にいる人全員に分けてでも皿を空け、
空いた皿はさっさと店員に片付けてもらう方が理にかなっているとされる。
私は関東と関西とでいうと、どちらかと言えば関西に近い精神構造の持ち主であるから、今まで
宴会の席では料理を残らずたいらげてしまうという行動を基本としてきた。
ところが一方で関東の人々は宴会の際いつもいつも、申し合わせているわけでもないのに
お皿の上に料理の最後の一切れを残すのである。
だから自然と、その一切れを片付けるのは私の役目となっていたのだった。

それに対して、彼女の人は生まれも育ちも関東の人間である。
「一個残し」の風習は、私から見るとわけの分からない妙な常識以外の何物でも無いわけだが、
一方の彼女にとって見れば、至極当然の礼儀のようなものであった。
結果、彼女の人は私が一個残しの話を理解するまで、私のことを「ちょっと常識外れな人」で
あると認識していたのだそうである。
こうした何気ない常識のズレのようなものが、積み重なるということもあるのかも知れない。

関東関西という違いを除いたとしても、彼女の人から見ると私は礼儀に欠けた人間に
見えることがあるそうである。
例えば贈り物を受け取るときに彼女の人は、一度まず遠慮の態度を見せる意味で受け取りを
断るのが礼儀と考えているようである。
これが私の場合になると欲しいと思えば受け取るし、要らないと思えば即断るという実に単純な
行動を採用することが多いから、彼女のような暗黙の礼儀を大切に思っている人からすると
とても無作法に見えてしまうだろうことは想像に難くない。
こうした類の話の基本的なパターンとして最近私たちの間で共通認識され始めたのは、私の
考える礼儀のようなものというのは、実利重視であることが多いということである。
要するに、私の礼儀作法の考え方は相手の利便性を起点に、こちら側がいかに配慮をするか
という色合いのものであるようなのだ。
一方の彼女の人の礼儀作法の考え方はまず形式ありきであるように、私には思えてしまう。
形式には、それに付随する歴史的な意味合いであるとか、慣習上の整合性などが込められて
いるわけであるが、彼女の人はそうした背景情報を常識として知っているのを前提とした上で、
まずは形式を整えることを優先する傾向があるようなのだ。
つまり、形式が整ってさえいれば良し、というわけではなくむしろ、形式は整っているのが
当たり前である、という姿勢なのである。

抽象的な話ばかりでは見通しが悪いので実際にあった一例を挙げておこう。
例えば、手紙の宛名につける敬称「様」の文字の大きさについてである。
そんなものに礼儀の違いがあるのかと不審に思う方も多いかとは思うが、彼女の人はこの
「様」を宛名の文字と同じ大きさに書くべきだと主張し、一方の私は宛名の文字よりも
小さい方が良いと主張したのだから始末が悪い。
彼女の論拠は、「様」は敬称であり相手を敬うためにつけるものであるから、それを宛名より
小さい文字で書くということは相手を敬う心が小さいかもしくは控えめに敬いたいという
意思表示と見られかねないということのようであった。
一方の私の論拠は単純で、「様」を小さくすれば名前が目立つので読み易いという、利便
一辺倒の考え方であった。
結果、結婚式の招待状の宛名書きについて、彼女の人が書いたものは「様」の字が他の文字と
同じ大きさで、私が書いたものは「様」の字がやや小さめになることになってしまっている。

この離婚届も、そんな私たちの間の考え方の違いが生み出してしまった結果なのだろうか。

 彼女「離婚届に判子を押して欲しいのれす」
 徳田「いやしかし、私たちはまだ結婚すらしてませんが…?」
 彼女「それはわかっているのれす」

彼女が言うにはこうである。
結婚当初は愛し合っていた二人が時間とともに険悪になる……そんなことは世の中にいくらでも
ある話である。
そういうとき、妻側が離婚したいと思っても、夫側が離婚届に捺印しないために事態が
悪化することもある。
離婚するしないでもめているときに双方の意見を冷静に調整するのは難しいし、そうなると
意固地になって夫側が判子を押さない、というのも十分考えられるわけだ。

 彼女「だから、安心のために、結婚する前に離婚届に判子を押しておいてもらいたいのれす」
 徳田「それは、いざというときにいつでも出せるように、ということですか?」
 彼女「……」

彼女の人は、離婚届を見つめたまま答えない。
もしかすると、一緒に幸せな家庭を作ろうという、私の決意が信用されていないのだろうか。
それとも彼女の人の言葉通り、万が一にもめたときの保険のようなものとして、手元に署名と
判子の入った離婚届を保持しておきたいということだろうか。
今日は9/1、防災の日だ。
万が一の保険という意味合いを込めるにはちょうどいいのかも知れない。
いやもちろん、夫婦喧嘩の時にいちいちそれを持ち出して、脅しに使うつもりなのかもしれないと
いう可能性は残っているのだが。

私はしばらく考え込んだ。
もしも夫婦喧嘩のたびに彼女の人がこれを持ち出すようなら、むしろそんな人とはさっさと縁を
切るべきだろうし、問題は無い。
それにそもそも、離婚するような事態にならないよう私たちは日々努力するべきだろう。
離婚届を予め書いておくというのはあくまでも形式に過ぎない。
それを持っているから安心とかそういうのは実質からするとおかしな話でもあり、お互いの、
相手に対する日々の思いやりこそが重要視されるべきことのようにも思える。
もしもそうした日々の努力が無駄に終わったとしても、即離婚という結論を出すのは早計で
ある可能性も否定できないわけだし、その場その場の状況に応じて臨機応変の対応を想定して
おくべきのようにも思わないではない。
そう考えてみると、この離婚届は突き返すべきでは無いのだろうか?

「判子を押すのはやめとくよ」という台詞を言い掛けて、私はその言葉を飲み込んだ。
もう少しだけ、よく考えてみよう。
彼女の人が何を考えているのかは分からない。
もしかすると、本当に私を信用していないのかも知れない。
しかし、ならば、私の方はどうなのだろうか。私は彼女の人を信用しているのだろうか。
確かに私から見ると、彼女の人のこの要求はいかにも形式的で意味の無いものに見える。
しかし、それは彼女の人にとっては何か儀礼的な、大切な意味合いのある行動であるのかも
知れないではないか。
その意味合いがどのようなものであるにしろ、彼女の人が私に対して、私に不利となるような
ことを良しとするだろうか。
自分を信頼して欲しいと思う前に、私は彼女の人を信頼すべきではないのだろうか。
そして信頼するのならば、それを態度で示すべきではないだろうか。

私は離婚届の署名欄に自分の名前を書き、その横に判子をついた。
彼女の人はそれを受け取ると、嬉しそうに「ありがとう」と笑った。
そして彼女はすぐにそれを破り捨てた。

雨谷の庵は今日も雨。
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管理者:徳田雨窓