雨谷の庵

[0363] 柱の数 (2003/08/06)


[Home]
夏ですから。

あれはまだ私が巣鴨に住んでいた頃の話だっただろうか。
夏らしい暑さが周りに蒸し蒸しと立ち上っていた、今頃のことだったように記憶している。
その頃はまだ彼女の人とも付き合い始めたばかりで、二人でどこかへ出かけるときも
今のような阿吽の呼吸で集合するという感じではなく、事前にきちんと待ち合わせ場所を
決めておき、お互いきっちりと時間通りにそこに足を運んでいたものだった。
結婚式も間近に控えた最近では、互いの生活リズムも熟知してしまっているから、特に
決め事をしなくとも、なんとなく集合できてしまうのだが、昨年の時点の私にそれを
望むのは少々無理があるというものだろう。

我々が待ち合わせによく使っていた場所の一つに渋谷の駅地下があった。
渋谷は巣鴨から電車一本で出てこられるため私には便利であったし、彼女の人の住まいからも
同じように電車一本で出てこられたために、好都合だったのだ。
それに渋谷といえば色々と交通の便も良く、どこに行くにしても不便を感じることがない。
そもそも渋谷自体も色々と遊ぶ場所には困らない土地であるから、デートの待ち合わせには
もってこいという事情もある。
一つだけ難点をあげるなら、いつもひっきりなしに、信じられないような数の人々が出歩いて
いることだろうか。
渋谷の駅と一言に言ってもそこは迷路のような建物の集まりだし、そんなところでその人の
群れの中から待ち合わせの相手を偶然に見つけるのは不可能というものだ。
それに私は田舎育ちのためもあってか、どうも人ごみというのが苦手で、長い時間人波に
揉まれているとなにやら頭痛がしてくるので始末が悪い。
かといってどこかの喫茶店などで待ち合わせようと思っても、大抵はいつも満席で、すんなりと
中に入れるというわけでもない。
渋谷で待ち合わせをするのなら、まずはどこで待ち合わせるのかということを色々考えなければ
ならないというわけなのだ。

我々が待ち合わせに使っていたその駅地下は、渋谷の中でも珍しく人気のない場所なのだった。
地下鉄半蔵門線と東急田園都市線が相互乗り入れをしているそのホームの一階上に当たるその
通路は、何故か8番階段と9番階段の間の区間だけがガランと空虚な雰囲気に包まれている。
8番出口といえばあの有名なハチ公広場に通じる、渋谷の中でも最も人ごみの厳しい出口の
一つだし、9番出口の方も8番出口ほどではないにしても人の出入りの激しい場所である。
しかし、それらの二つの出口の間を行き来する人は、それほど多くは無いのであるらしい。
夜は勿論、真昼間でもその通路は静まり返り、どこかしら別空間のような趣を醸しているのだ。

私はその日も、その通路の柱に寄りかかるようにして彼女の人が来るのを待っていた。
通路には2本一組の丸い柱が11組、計22本の柱が立っているのだが、私はいつも真ん中、
6番目の柱のところで彼女の人を待つことにしていた。
待ち合わせの時刻までにはまだ十数分の余裕があったが、まあ、それくらいの時間をぼんやりと
過ごすのは特に苦痛でもない。
私は暇つぶしのために持ってきていたゲームボーイでヒカルの碁を起動させると、彼女の人が
到着するまでそれに没頭することにした。
通路はいつものようにひっそりと静まり返っていて、渋谷の街の喧騒はどこか遠くの小波の
ような音で微かに周囲を震わせているだけだった。
夏とはいえ流石に駅の地下には冷房が効いていて、暑さに汗が吹き出ることも無い。
私の持つゲームボーイのビープ音は、どこまでもこの通路に響き渡っているような気さえした。

ふと、私は妙な気配を感じて後ろを振り返った。
最初は彼女の人が私を脅かそうとしてこっそりと近づいてきたのかとも思ったが、それにしては
方向が逆だったので少し不審に思ったからだ。
いつもなら彼女の人は9番階段を降りてくるのだが、件の気配は私の背後、8番階段の方から
漂ってきたのだ。
私の振り返った先、8番側から数えて5番目の柱の根元に、見知らぬ女の子が座り込んでいた。
年の頃は10歳くらいだろうか。
妙にやせ細った感じの体つきで、いまどき珍しいおかっぱな黒髪に隠れるように、痩せこけた
頬は陰を帯びて見えた。
ちょっと不思議に思ったのはその服装で、この夏の真っ只中の季節であるのに、その子は
やや分厚い布地の長袖長ズボンを着込んでいるのだった。

そしてその子は何故か、私の額の辺りをじぃっと睨み上げていた。
私の背筋を、冷たいものが走り抜けたような気がした。

私は慌てて女の子から視線を逸らすことにした。
ここ渋谷でもそうだが、新宿や池袋といった人の集まる場所には、時々頭のちょっと壊れかけて
しまった人々が出没するからだ。
この女の子も、そうした類の人かも知れない。
係わり合いになると面倒なので、私はその子の視線に気づかない振りを続けることにした。
その後は半ば必死に、手元のゲームに意識を集中しようとしたのだが、しかし、その子の
どこかしら突き刺さるような視線はなんとなく背筋のあたりで感じ続けてしまっていた。
冷や汗が、にじみ出るようにして背中と肌着の隙間を流れ落ちた。

「やほーやほー」
どれくらいの時間が過ぎたのか分からなくなりかけた頃、9番階段の方向から、彼女の人の
明るい呼び声が近づいてきた。
私はその姿を見て思わずほっとするとともに、それまで避け続けてきた視線の冷たさが急に
緩んでいくのを感じていた。
「にょふー。待った?待った?漏れっち、遅刻した?」
私の顔がなんとなく強張っていたことに気づいたのだろうか、彼女の人は少し心配げな顔で
そう問いかけてきた。
「いや、そんなことは無いんだけどね…」
私は適当に言葉を取り繕うと、後ろの柱を振り返った。
女の子の姿はもう、そこには無かった。
私は心のどこかで安堵のため息をついていた。

「それにしても、今日は珍しいにょー」
そんな私の様子に気づいているのか気づかないままなのか、彼女の人は小さく首を傾げて
私の方を不思議そうに見上げていた。
「徳田さん、いつもは6番目の柱のところにいるにょ?でも今日は違うにょー」
……え?
私がいつも待ち合わせに使っている柱は、8番階段から数えて6番目、つまり彼女が
やってくる9番側から数えても、6番目の柱ということになる。
私は慌てて周りを見回し、柱の数を確認し直した。
ここは、8番階段から数えて5番目、9番側からは7番目の柱であった。
「いや、でも、確かにさっき来たときは…」
確かに、さっき来たときは6番目の柱だったはず。
その言葉を言いかけたとき、私は不意に、怪談めいた思いつきが脳裏を駆け回るのを感じた。

噂だが、その通路の柱は時々、1本増えるのだという。

雨谷の庵は今日も雨。
< Back |List| Next >
管理者:徳田雨窓