雨谷の庵

[0347] 我が栄光のびよんびよん (2003/05/15)


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神はまず、びよんびよんを御創りになった……のかも知れない。

ともあれ、私の今この頭の真上で採り行われている様々な現象を一括にして言葉のようなもので
表現する他無いと仮定するなら、それは恐らくこのようになるのではないかと思わないでは無い。
「びよんびよん」
ああ、なにゆえに神は我にびよんびよんを強制し、またそれをケラケラと笑うのであろうか。
一体、どこの誰をもって、人々は頭上のびよんびよんを認識し、そしてそれを宇宙の真理として
受け入れつつも崇高なるびよんびよんの精神を受け継いでいかねばならんのであろうか。
などとこうして私が嘆きにも似た運命への呪いのような言葉をぶつぶつと口に上せている間にも、
その計り知れない力学理由によってびよんびよんと揺れ動くそのびよんびよんは、あいも
変わらずびよんびよんであり続けるが故にびよんびよんという様相を崩さないのであった。
びよんびよん。

思えば私の人生の大半において、それはびよんびよん足り得なかったと言い切ってもよいだろう。
常識的な経験を積んだ、常識的な人類諸般を自負する者々であるならば、ほとんどのその存在を
びよんびよんによって左右されるなどということが有り得ようはずはないのである。
それは今まで私が疑いもしなかったびよんびよん無き世界観でもあり、そして私はびよんびよん
などという非常に不確かな揺らぎの影響を微塵も受ける必要を持たないまま、広く人々の
共有無意識において人類の思索の基盤を為していると主張するにやぶさかではなかったであろう。
だがしかし、それもこれもどれもの皆々が今や、私の頭上でただただびよんびよんと
びよんびよんしているこのびよんびよんと呼ぶ他無い非日常的なびよんびよんであるところの
ソレによって、根底からびよんびよんと揺るがされてしまいつつあるとびよんびよんと
思い始める他は無いのかも知れないのである。びよんびよん。

「びよんびよんで、今日この一日がいかに素敵なモノになるか想像したまいよ」
神の御み言葉は今のこの私のびよんびよん的日常を開始するに当って甚大なる影響力を図らずも
行使したと結論付ける他は無いが、しかしそのびよんびよんによる素敵効果を検証するために、
人類が支払うべきコストとして、なにゆえに私のこの人生におけるヒトコマが捧げられて
しまっているのであろうかという至極素朴な疑義については、少々考慮されて
しかるべきなのではないであろうかとも思わないでは無い。
思わないでは無いのではあるがしかし、神の従順なる下僕をもって己の自我を繋ぎとめている、
哀れな子羊的人類の一部分であるところの私としては、神がもしびよんびよんたれと述べるなら
それに従わざるを得ず、神がもしびよんびよんせよと命ずるならばそれを実行せねばならないと
真に心の底から願い祈りそして崇め奉ることに何らの躊躇もないところではあるのだ。
神の御心は深く、常に計り知れないモノなのである。びよんびよん。

今やびよんびよんの偉大なる威光を頭上に頂いたこの私は、言ってみれば神の使徒と称す以外に
他に呼びようも無い敬虔な存在に他ならないわけではあるが、しかし、私のこのびよんびよんの
有様を目の当たりにした人民の反応というか態度というか、そうしたものは非常に微妙な
ところのそれに似た雰囲気でもって私を取り巻いているように思えなくはなかった。
ある者は私のびよんびよんを見てにこやかに微笑み、ある者は私のびよんびよんが通り
過ぎた後にけたたましい笑い声を立てた。
またある者は右の人差し指を視線の向こうに揺れるびよんびよんにこそっと向け、ある者は
びよんびよんに頭を傾げ、ぶつぶつと小さく祈りの言葉を唱えているようだった。
神の御心を知らずにびよんびよんを目の当たりにした者にとって、このびよんびよんが
いかなる効果を持つのかということを考察することもまた、神の使徒として非常な
重任であると僭越ながら考えているわけでもあるがしかし、そんな私でさえもこの
びよんびよんのびよんびよんっぷりに向けられる衆目の有様を解析し尽くすことは不可能に
思われる作業に他ならないのであった。
何故ならば、人々は私のびよんびよんが近接しつつあるにつれ、その目を背けようという
心理学的圧力に耐えきれなくなっているようであるからである。
即ち、びよんびよんの効果をびよんびよんと測定する為にびよんびよんと近づけば、
観測対象である人々がびよんびよんと逃げていくと言い換えても良い。びよんびよん。

ならば、と私は一大なる決意でもって近似測定の実施に踏み切ることにした。
神のびよんびよんたるご威光に人民が逃げ惑う他無いのであるならば、びよんびよんに対して
未だ何ら認識するを躊躇しない存在をもって、測定の全てと結論する他無いであろう。
即ち、人民の中でも特にびよんびよんを率直に受け入れることが出来るであろう者々に、
このびよんびよんをもってびよんびよんと接近し、思うがままにびよんびよんを
堪能させるのである。
私は近接人民の中の一人が捧げ持っている、幼少人民に向けて我が栄光のびよんびよんを
びよんびよんさせてみる事にした。
「びよんびよ〜ん。びよんびよ〜ん」
私の見事なるびよんびよん操作により、その幼少人民の眼前では、彼が今までに経験し得な
かったであろうはずのびよんびよん光景が現出する事態となったわけである。
ああ素晴らしきかな、びよんびよん。
「あ”う”〜っ!」
幼少人民はそのつぶらな眼に涙を浮かべつつ、神への賛辞の叫びを上げるのであった。
愚昧なる煩悩に支配された者がもしもこの光景を一見したならば、もしかすると私という
愚か者が頭上のびよんびよんでもって幼少人民を威嚇し、幼少人民は恐怖のズンドコの
中で泣き叫んでいるだけのように見えてしまっているかも知れないが、私は神の御心の
具現者なのでありびよんびよんを世に広めるために使わされた神聖なる下僕なので
あるからして、それは一切の全てが誤解であり、この幼少人民は決して知らないおっさんに
苛められて泣いているわけではなく、神のびよんびよんの祝福でもって歓喜にむせいで
いるに他ならないに違いないのである信じたまい。
……びよんびよん。

要約:ネズミーシーで一日中、びよんびよん帽子を被ってました。もう勘弁して下さい。

雨谷の庵は今日も雨。
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管理者:徳田雨窓