雨谷の庵

[0300] 私の好きな言葉や台詞 (2002/09/26)


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今回は私の好きな言葉や台詞を集めてみました。

○私は仕事に命を賭けている。依頼人である貴方にも私と同じものを賭けてもらおう。

手塚治虫のブラックジャックかなにかで、似たような台詞を見たことがあり、それが私の記憶の
中では上記のように変換されていたりする。
世の中には「お客様は神様だ」などと言って威張り散らすような、客であって客でない人が
居たりするが「お客様は神様です」というのはあくまでも接客の心得としての話であり、
客側の行動論理としてそれを採用するのは傲慢以外の何物でもないように私は思う。
そもそも仕事を誰かに依頼するのは依頼人の責任の範囲で行われることであり、その結果に
対する全ての責任は依頼人にあるとするのが本筋だろう。
依頼された側は依頼された内容に応じて自身のキャリアなり、社会的・職業的評価を賭けて仕事に
臨むだけの話であり、その責任は依頼人に対しての範囲に限定されるべきではないだろうか。
結局、客が客として客足りうる為には、依頼された側がその依頼内容に対峙する際に賭けるものと
同等のものを賭ける覚悟が、依頼人にも必要だと私は思う。
命賭けの仕事を依頼しているのならば、依頼人もまた命を賭けるべきなのだ。
もし貴方がそうしないのならば、貴方は始めから客などではない。単なるガキだ。

○時は金なり。そして金は天下の回りもの。

二つの諺を組み合わせたもの。
人は何に対してお金を払うのか。
それは依頼された作業に対して依頼された側がつぎ込んだ時間と、その労力とに対して
支払っていると考えるのが妥当だろう。
労力は依頼された側の個々の問題に過ぎないから、極論するならば他人の手を煩わせた時間に
対して人はお金を払っているとしても良いだろう。
つまりお金を使うということは、他人の手間暇を利用することで自身の手間暇を省くと
いうことに他ならない訳だ。
天下を巡るお金は即ち、人々が互いを支え合っていることの映し鏡に他ならない。
お金を惜しむならば、自分自身の手間暇で代替する他はない。
お金が欲しいならば、自分自身の手間暇で誰かの手間暇を代替する他はない。
時々「楽をして儲けることが出来る」という触れ込みを見かけるが、楽をするということ自体、
自身の手間暇を自分のためだけに使うということであるから、そうして過ごした時間に対して
他の誰かがお金を払おうとするはずがない。
夢を見るのは勝手だが、寝言は寝てから言うべきだろう。

○修理ってのは原因を探し出すのが1番難しい。

ときどき耳にする、技術者の愚痴。
これは私的な経験則だが、故障発生から修理完了までの時間のうち、実際の修理にかかる時間は
だいたい1割程度であることが多い。
あとの9割は原因の特定とそのためのトライ&エラーの繰り返しである。
まあ、要するに原因が始めっから分かっているのであれば全ての故障は故障ではなく、
単にちょっと変わった動きをしている状態である、と言えなくもない。
故障はその原因が分からないからこそ故障なのだろうし、それが直せないといのは即ちその
原因を特定することが難しい、とまあそういうことだ。
某ソフトウェア会社は、一見すると故障に見える動作を「それは仕様です」と言い放つが、
実はその会社にとってみればその動作の原因は明らかであり、単にそれを直すのにかかる金を
惜しんでいるだけ、というのが真実なのかも知れない。

○どうやって殺したかは問題じゃない。得をした奴、そいつが犯人だ。

何かの推理小説で見かけた、探偵の台詞。
人為的な事象の結果を分析する際には、その経緯よりもその利害関係を把握することの方が
より有効であるという示唆。
人間の行動は様々な価値観に基づいた利益追求の発露に過ぎないと仮定するならば、起こり得る
全ての可能性から一つの結果へと収束するまでに施された人為的操作の全ては、関係者個々の
利益に資するものであったと見るべきでは無いだろうか。
従って、その結果から最も大きな利得を得た者こそがその結果に対し最も貢献したであろうと
考えるのは、比較的自然な結論なのではないだろうか。
ただし価値観の多様さはしばしば、第三者による利益の見積もりに誤差を生じさせる事も多い。
特に愛憎が関係者の価値観を支配していた場合、状況を単純に切り分けるのは難しい。

○今までの人生で最もつらかったことを思い出しなさい。そうすれば良い音が出る。

恩師が授業中に発した言葉。
音楽の合奏の練習の際、とにかく美しくて美しくて手を出すことすら躊躇われるような旋律が、
何故かどうにも荒々しい演奏にしかならなかったのを見かねて、恩師がこの言葉を口にした。
片想いの人に恋人が居ることが判明したときの気持ち、恋の告白をむげに断られたときの気持ち、
かつては楽しく一緒に過ごしたはずの恋人から別れの言葉を告げられたとき。
恩師が挙げた事例の数々は何故か恋愛絡みの場面ばかりだったし、そしてなにやら恩師自身、
思い出すところがあったのか妙に涙ぐんでいたが、しかしこの言葉の後の皆の合奏っぷりは
素晴らしいものになったことを覚えている。

○真実はいつも二つくらい。

「真実はいつも一つ」というお馬鹿な漫画のお馬鹿な台詞をもじったもの。
そもそも事実というものからしてそれは認定するものであり、その事実を総括すべき真実が
ある一点に常に定まるなどということは有り得ない、と考えるべきだろう。
事実の認定の結果いかんで、そこから積み上げられる真実は当然異なってくるものだし、
もしも事実の組み合わせが同じであったとしても、そこから導かれる真実が毎回のように
一通りであるともまた限らない。
真実から事実が紡がれるという幻想を抱くのは個人の勝手だが、複数個人からなる意識集合の
中で、その理屈を採用するのは非常に無理があるように思う。
場面場面に応じて、複数の真実を柔軟に使い分ける手法の方が適応力に富むと私は思う。
その結果、八方美人と謗られることになるかも知れないが、それはまた別の話。

○頭は使わないためにある。

学生時代にお世話になった先輩の口癖。
頭を使うというのは、物事を整理し状況を分析し未来を予測するということであり、それは
要するに無駄を省き可能な限り合理的に行動するためのものであり、極論するならばつまり
できるだけ楽をしようという目的に処するものである。
この楽をするというのは身体的な意味はもちろん、金銭的時間的なものも含むわけで、
言ってしまえばなるべく何も考えずに済むようにしようということである。
よって頭を使うことで事前に工夫をしたり色々な仕掛けを施したりということは、結果的には
頭を使わずに済ませるため、ということになる。
頭の機能は自己の存在の否定の為に存在する。逆説的だが確かにその通りで含蓄深い。

○明日でも出来ることは今日しない。今日しか出来ないことはもうしない。

同じ先輩の、お得意の言い訳。
「明日でも出来るから、今日はいいや」と言って仕事を先延ばしにした挙句、締切ぎりぎりに
なってしゃかりきに仕事を仕上げるというのは良く目にする光景だろう。
しかしぎりぎりになっても「今日しか出来ないことはもうしない」と開き直る人は、結局
仕事を一切することなしに気楽な日々を送ることが出来る。
「おい徳田。前に頼んでおいたプログラム、明日締切だけど、出来てるか?」
「いえ。でも明日までにはなんとか」
「おい徳田。昨日も言ったけど、あのプログラムもう締切だぞ。まだ出さないのか?」
「すみません。結局間に合いませんでした」
そして私は毎日へらへらと笑いながらぼんやりと一日を過ごす。
別名、怠け者の法則。

○世界平和について考えています。

「お前は一体何を考えとるんじゃヴォケ」と罵られたときに返す私の台詞。
「びゅびゅびゅびゅびゅ。いま何考えてたにょ?」と聞かれたときに返す私の台詞でもある。
バリエーションとして「貴方への愛について考えています」というのもある。
もちろん、実際には何も考えていない。

○酒と泪と男と女

酔っ払うこと、それこそが人生そのものであるということが至極当然に思えてくる、
不思議なお経の題名。

○酒をやめるのは簡単だ。が、酔い覚ましの水だけはやめられない。

二日酔いになってしまったときは速やかに水分を補給するのが定石だが、その時に飲む水は
例え水道水であってもこの世のものとは思えないほど素晴らしく透き通った喉ごしで、
乾き切った身体を瞬時に冷たく駆け巡る。
その美味さの瞬発力を忘れられず、酒飲みは飲酒を繰り返すのかも知れない。

○継続は力なり。しかし力そのものに意味はない。

何かを続けることは難しいが、続けていることそのものには何ら意味はない。
という訳で、今後とも雨谷の庵は下らないことを垂れ流しつつ続くことになりそうである。

雨谷の庵は今日も雨。
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管理者:徳田雨窓