雨谷の庵

[0297] 価値の全てを穴によって (2002/09/12)


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そもそも理論が穴だらけ。

穴というものがいかにこの世の中において価値のあるものであるかということを今更ここで
議論することが不毛な試みに他ならないことは至極明白以外の何物でも無いが、その愚を
敢えて冒す事もまた人生にとっては非常に重要な出来事の一つと成り得るのではないかといった
可能性を否定する事はこれまた尋常な判断力の範疇において回避しておくべきことになるで
あろうと思われるので、少々の文面を割くことにしようかと思わないでもない。
まあぶっちゃけた話、今回は穴の偉大さについて書いておこうということである。

穴は偉大である。
何故に穴が偉大かを知る者は幸福である。
例えば貴方の財布から5円玉を取り出してみれば、その偉大さは自ずと貴方の心の奥底にまで
染み渡るであろう。
何しろ5円玉は穴があるから5円玉なのである。
もしもこの穴がなければその貴方が今手にしている物体は5円玉のようであって5円玉では無い、
むしろどちらかと言うと紙屑ほどの役にも立たない、単なる丸い金属片に過ぎない。
貴方に出来ることはせいぜい、その下らない金属片を両手に捧げ持って「もきゅ〜んっ!」と
叫ぶことくらいに違いないのである。
このように考えるならば即座に判明することであるが5円玉に付せられている5円という価値は
その穴によって創出されるべき存在に他ならず、つまりはその穴こそが5円なのであり、また、
人々はその穴に対して5円の貨幣価値を見出し頭を垂れていると看破すべきである。
穴がなければそれは「もきゅ〜んっ!」と叫ぶ他無いのだ。
そんな貴方のことを、人々が胡乱な人物と見なす事は火を見るよりも明らかであろう。
穴の有無によって生じるこの「5円」と「もきゅ〜んっ!」との著しい差異に思いを
馳せるならば、如何に穴というものが偉大であるか、実に明確に理解する他は無い。

恐るべき事に、先程の5円玉に対する議論は更に、50円玉についても同様に機能することが、
様々な科学的観点から実証されている。
つまり結論から先に述べるなら、もしも50円玉に穴が開いていなければ、貴方はそれを両手に
高々と捧げ持って「もきゅ〜んっ!」と叫び狂うしか術は無いのである。
人々はその穴に向かってのみ50円もの大量なる貨幣価値を認めているのであり、決して
その金属片に対して畏敬の念を抱いている訳では無いのである。
思えば、これは即ち次のような結論をもたらさざるを得ない。

 価値とは即ち穴のことである

ああ、この唯一にして無二の帰結から導き出されることの重大さを、貴方はまだ理解しきれて
いないのではないかと、僭越ながら私は危惧するに吝かでは無い。
従って更に類似の例でもって私はこの重大なる真実について語り続けなければならないことに
なりそうであるが、それもまたこの穴という雄大な実存に対しての表敬行為であると思えば
何を苦に思う必要があるであろうか。否、無い。
良く知られている穴に関する話題としてドーナツという食料品の中央部のそれが取り上げ
られることがしばしばあることは、ここを愛読の読者諸賢には既にご承知の通りだろう。
最新の科学的検証に基づくならば、即ちこのドーナツにおける穴もまた、非常に深遠な洞察を
人類に与え続けているものの一つと言わざるを得ない状況なのである。
何故ならば統計学的に適正に補正されたデータに目を向けたとき、貴方はそのデータが示す
結果として「穴の開いていない食料品をドーナツとみなす人間は人類全体の約1%以下しか
存在しない」という驚くべき事実に気付くであろう。
このことが如実に物語っているように、ドーナツもまた穴があるゆえにドーナツなのであり、
穴が無ければそれは既にあらゆる観点から見て「非常にドーナツでなさそう」という認識を
人々から持たれてしまう物体でしかなく、故にこれらを総合的に帰結させるならばドーナツの
中央部にあるあの悠然とした穴こそがドーナツそのものであり、人々はドーナツに対して
その食品的価値の全てを穴によって古来より見出し続けていたと言わざるを得ないわけである。
もしも穴の開いていないパン状のものを手にしてしまった場合、貴方に残された選択肢は
それを天高く捧げ持った後に「もきゅ〜んっ!」と踊り狂うことくらいであろう。

ここまで力説してもなお穴に関するその遠大なる事実に対して疑義をお持ちの貴方に対して、
私は科学的な論点からの考察に追加する形で、更に神学的な見地からの議論を補足しておこう。
日本の古き良き伝統を守り伝え続けている古都ナラを旅したことのある人々ならば容易に
想像のつくことであろうとは思うが、古代の日本人はそもそもありとあらゆる穴に対してその
価値を適切に見出し、そして畏敬の念を持ってそれらに頭を垂れ続けていたのである。
その証拠に、ナラの大仏と呼ばれる大神像の納められたトーダイジと呼ばれる巨大木造神殿には、
その柱の根元の部分に人類の肩幅大の穴が開けられているのである。
これは大仏の鼻の穴の大きさと同じように掘られており、人々はこれらを拝み、そしてその中を
潜り抜けることで大仏のご利益を得ようとするのである。
一見すれば摩訶不思議な光景に思えるかも知れないが、しかしここをお読みになり、人類にとって
如何に穴そのものが重要なものであるかを正しく認識したであろう読者諸賢であるならば、
既にその行為の高度に常識的な有様がまざまざと見て取れるのでは無いかと思う。
つまりこの大仏にしろトーダイジにしろ、その柱に穴があるからこそ人々は頭を垂れるのであり、
それは即ち古来の人類の信仰というものはすべからく穴に拠って立ち、穴をもって神と見なした
ことの現れに他ならないという、非常に明々白々にして単純な帰結を導く他は無いのである。
考えてみてもらいたい。
もしトーダイジの柱に穴が無かったならば、その巨大木造神殿を訪れた信者達はただただ口を
アホウのように開けて「もきゅ〜んっ!」と叫びながら神殿の中を駆けずり狂う他無いのでは
ないだろうか。
この非常に有意義な神学的考察の結果を前述の科学的考証に照らすならば、我々人類は穴について
更に大いなる、以下のような洞察を得ることになる。

 神とは即ち穴のことである

嗚呼、なんという美しい結論であろうか。
もしも天地開闢の理が神々の御心によってのみ執り行われた一つの旋律であると見なすならば、
つまりそれらは穴の大いなる意思のもとに創造されたるに等しくなるのである。
我々地球人類のみならず、広大なる宇宙世界に君臨する78の宇宙人類も含め、更には
ブラックならびにホワイトなる穴の彼方に漂う高次超次元生命体のありとあらゆる活動をも
内包したその全てにおいて、穴こそがその根源的存在定義を提示しているのであり、
穴ゆえに我らと彼らすべては幸福のうちに時間を浪費しつくす宿命を享受できていると
断じる他はないのである。

偉大なるかな穴。
我々の如き矮小なる存在は、これら穴の偉大なることを真に理解し、その恩恵に日々感謝の
念を以って敬虔に生を全うすべきなのである。
兄弟達よ。まずは手始めに、ズボンから始めようでは無いか。
もしも貴方が綻び破れたズボンを既に所持しているなら、貴方は今日この時より即、穴の
熱心なる信者として行動することが可能なのである。
その穴の開いたズボンを履き、人々の前を闊歩するが良い。
貴方のその穴への信仰心は、ズボンに開いた穴々のあらゆるところから周囲に放出され、
穴の真実に思い至ることなく愚昧なる人生を送らんとする衆愚の心を穴の歓喜に導くであろう。
やがて人々はすべて穴の開いたズボンを履くようになり、世界は平和のうちに幸福を
現出させるに違いないのである。
さあ、貴方もこの穴開きのズボンを履きたまえ、我と共にっ!

……といってズボンを差し出したら、もきぃと一喝されてしまいました。もきゅ〜んっ。

雨谷の庵は今日も雨。
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管理者:徳田雨窓