雨谷の庵

[0286] 妙に小綺麗な廃墟 (2002/07/12)
※廃墟雑文連鎖


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自動車での旅行先で立ち寄ったレストランで、「そのこと」に気が付くまでしばらくかかった。
車を降りて、もう一度このドライブイン・レストランの建物をしげしげと眺めて、
はじめて天窓のガラスが全て割られていることに気が付いたのだ。
つまり、ここはもう、営業していない。しかもつぶれてしまってからかなり経っているようだ。

「私ったら、すっかり勘違いしちゃって」
私の横で、妻の洋子はクスクスと照れくさそうな笑いを浮かべて、この妙に小綺麗な廃墟の
屋根を見上げていた。
二人での、久しぶりの旅行だった。
仕事の都合が良かったこともあって、私に1週間くらいの休暇ができたこの機会に、
ちょっとした旅行をしようと思い立ったのは、つい半月前くらいの話だろうか。
7月の上旬といえば夏休みにはまだ少しばかり早いような気もしないではないが、
夏真っ盛りの行楽シーズンの人込みにうんざりさせられるよりは、時期外れの静かな
い雰囲気を楽しむというのも悪くはないことのように思われた。
洋子ははしゃぐでもなく、静かにこの私のアイデアに賛成した。
そのとき私は、ここのところずっと塞ぎがちだった洋子に、久しぶりの笑顔を
見たような気がした。

「これじゃあお昼をここで、という訳にはいかないね」
私は照りつける日差しに手かざしをしながらレストランを囲む緑の山々に視線を巡らせた。
山間の、ちょっとした谷間のような場所だった。
谷川に沿って走る曲がりくねった道の脇に、誰から身を隠すわけでもなくただひっそりと、
このレストランは佇んでいるようだった。
見上げれば、夏の濃い緑の木々が群れを為すようにして山肌を彩り、その山々の峰の隙間から、
どこまでも遥か彼方に続いていく真っ青な晴天が容赦無く日差しを投げかけてきていた。
その日差しに焼かれるようにしてレストランの駐車場のアスファルトはチリチリと焦げたような
音を立ち上らせていた。
駐車場は妙にただっ広く、そのあちこちに点在している今は廃墟の一部と化した自動車たちの
たたずまいは、まるで滑稽な芝居の大道具のように現実味に欠けたもののように思われた。
そんな廃車ばかりの並ぶ光景だったが、何故かそれらの廃車はそれぞれが駐車の枠の中に
停めてあり、それが原因で私達はここに廃墟と気付かず入りこんでしまったのかも知れない。

「ねえ、見て」
ぼんやりと駐車場の車たちを検分していた私を、洋子の声が遠くから呼び止めた。
洋子は駐車場の、道路側とは反対方向にある脇のガードレールから身を乗り出すようにして、
その外側を見下ろしていた。
私は洋子の傍に並ぶと、同じようにしてその下を見下ろした。
駐車場の外側は、ちょっとした崖になっていた。
崖の底には、山間をひっそりと流れ下る谷川が、涼やかなせせらぎの音を立てていた。
肌を微かに湿らせるようなひんやりとした風が、その谷底の水面からゆったりと立ち昇って
きているようにも思われた。
「気持ちの良い眺めだね」
私は洋子の肩にそっと手を回すと、その身体を少しだけ引き寄せた。
しかし私の腕の中で、洋子の表情はどこかしらぎこちなかったのかも知れない。
「あの子にも、こんな景色をもっとたくさん見せてあげたかった」
洋子の笑顔は、消えていた。

息子の孝太郎が、交通事故に遭ったのは二年ほど前のことだった。
事故当時、孝太郎はまだ五歳になったばかりだった。
息子を失った私達はしばらく、呆然とした時間を過ごしていた。
特に洋子の落ち込み方は尋常ではなかった。
育児が一段落して再開した仕事も辞めてしまい、家の中でぼんやりと一人きりで過ごす毎日が、
1年以上も続いた。
私も私で、無理にでも気力を出そうと仕事漬けの日々に没頭していたこともあり、洋子の事に
全く構わず、無駄な空回りを続けていた時期もあった。
その頃の私達は形の上では夫婦でも、実際にはなんら互いを思いやることも無く、時だけを
ただひたすらに食いつぶしているだけの存在だったのかも知れない。
皮肉にも、私達二人にとって、孝太郎という存在がいかに日常の大切な部分だったのかを
思い知らされたのは、時が事故を思い出に変えてしまった後の、つい最近のことだった。

「中にも入ろうと思えば入れるね」
私は洋子の気が紛れるかも知れないと思い、このレストランの入り口に足を向けていた。
入り口から中を覗くと、店内の様子が薄暗い中に浮かび上がっていた。
入り口のすぐそばの待合室の横にはガラスでできたサンプルケースが設置されており、中には
いかにも偽物臭い色合いでできた様々な料理の模型が所狭しと飾られていた。
「オムライス、あるんだ」
私の後ろから恐る恐る覗き込みながら、洋子はぽつりとそう呟いていた。
孝太郎の好物はオムライスだった。
洋子のお得意料理もまたオムライスだったが、そのせいだろうか、孝太郎はとにかくどこの
レストランでもオムライスを頼んでばかりいた。
「ねえ、あなた。入ってみましょうよ」
いたずらっぽいとはいえ、洋子の眼差しには笑顔が戻ってきていた。
いつのまにか、洋子はレストランの扉の取っ手に手をかけていた。
私はこの時、洋子を押し留めるべきだったのかも知れない。
しかし、そう思ったときにはすでに、洋子はまるで吸い込まれるようにして扉を開けていた。

あの谷川から立ち昇ってきていたのと同じ感触の風。
それが、私達の全身を一瞬にして真夏の熱気から分け隔ててしまった。
店の中はびっくりするくらいに静かだった。
待合室の手前近くの席には、学生風の男がテーブル一杯にノートのようなものを広げていた。
そう、こんな静かなレストランは、受験勉強には最適の場所かも知れない。
店の奥の方にある窓際の席にはワイングラスを手に窓の外を眺める若い女性が一人、座っていた。
誰かと待ち合わせをしているのだろうか。
彼女の前のテーブルの上にはただ、ワインの瓶が一本だけ置かれていた。
そんな何気ない光景をぼんやりと見回していた私達の前に、いつのまにかウェイターが立っていた。
「三名様ですか?」
ウェイターは静かな声で、私達にそう尋ねた。
一瞬、私はウェイターの顔を訝しげな眼差しで見ていたのかも知れない。
ウェイターの勘違いを訂正しようと口を開きかけた私の背後から聞き慣れた声がしたのは、その時の
ことだったのだろう。
「ねえ、パパ。僕、オムライスがいい」
振り向くと、そこに孝太郎がいた。
孝太郎は、一心不乱にレストランのサンプルケースを覗き込み、そこに飾られているオムライスに
興味津々な眼差しを向けているようだった。
「孝太郎はいつもオムライスなのね」
何故か、洋子も孝太郎と一緒になってガラス窓の中に向かって微笑んでいた。
ガラスの板に映り込んだ洋子の表情には暗さなど無く、いかにも幸せで満ち足りた母親の笑顔に
なっていた。

私はウェイターを振り返った。
「ええ。三人です」
私の表情もまた、洋子と同じく満面の笑みだったに違いない。
ウェイターは私に笑顔を返すと、少々お待ち下さいという言葉を残して、立ち去った。
私達の次の客がウェイターに案内され、慌てて店の奥に駆け込んでいく。
私はもう一度、洋子と孝太郎を振り返った。
二人は、相変わらずサンプルケースの中を覗き込みながら、他愛も無い話を続けているようだった。
二人の傍で二人の会話を聞きながら、私は次第に心が落ち着いていくのを感じていた。
何気ない日常、何気ない幸せ。
これからも、それはずっと続いていくはずなのだから。

雨谷の庵は今日も雨。
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管理者:徳田雨窓