雨谷の庵

[0276] 壁際カニ歩きダイエット (2002/06/01)


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人生には落とし穴が付き物ということです。

もし貴方が何かの講習会のようなものに参加する機会があったとして、その時の講習会の講師が
何故にか壁際をカニ歩きのような格好でうろうろしていたとしたら、それは一体貴方の目には
どう映るであろうか。
恐怖、壁際カニ歩き星人。いや、そんなの居ないし。
痛快、壁際カニ歩き族。今、30代の好青年の間で流行ってます。嘘です。
熱血、壁際カニ歩きダイエット。なんだよそれ。本当に痩せるのか?痩せません。
そんなそこはかとない謎を含みつつも、その講師は何故か一日中に渡って壁際にてカニ歩きを
続けていたりするのであった。そんなに痩せたいのであろうか。だから違うって。
そして、その壁際カニ歩きの講師とは、他ならぬこの私であったりするから世の中というのは
油断も隙もないとかそういうことになりそうである。

ということで。
つい先日のことであるが私は仕事の関係上、取引先のお客様の前で講習会の講師をすることに
なってしまった次第である。
講習会と言っても、取引先に納入するシステムの操作説明のためのもので、参加して頂くのは
おばちゃんとかおじちゃんとかおばちゃんとかおじいちゃんとか若い娘さんとかおじちゃんとか
まあそういった感じで、本当にこいつらにパソコンなんて使えんのかよヴォケガとかそういう
ことは心底思ってなかったり、いや本当にそんなこと思ってないんですが、ホントですってば、
ってこういう風に書くと逆に取られかねないなぁむぅむぅ、まあ本当はちょっとだけそう
思ってましたゴメンナサイ。
話が逸れた。
ともかく要約すると、仕事でせこせこと作ったシステムがようやく完成したので、それを実際に
使って頂く予定の方々に、その使い方を事前に説明しなければならなかった、とまあ
そういうことである。
よりによって何の因果で私がそのような七面倒臭い……いやいやそんなことは思ってなくて、
こほんこほん、えーっと、私のように未熟な若輩者ごときがどういう経緯でもってお客様の
御お時間を頂きましてこの度導入予定となっていますシステムの操作についてその詳細を
ご説明させて頂けるという栄誉ある任務を一任されたかというと、それはまあ要するに他に
誰もシステムの操作を説明できる人が居なかったからというただそれだけのことに過ぎな
かったりするわけである。システムの引継ぎ作業をサボるとこういうことになる。

ともあれ。
どんな仕事であろうとも全力をもってあたるのがプロというものである。
もちろん私の専門分野はシステムを作ることであるが、任務を与えられた以上、それがたとえ
専門外の作業であったとしても、毅然とした態度でもって整斉と遂行してこそ真のプロと
言えるのではないかと思っていたりもする次第である。
しかも私は会議中の居眠りから遅刻、忘れ物に至るまでのあらゆる作業に対して才能を
発揮することで社内でも評判のオールラウンダーである。
講習会の講師という任務も問題なく遂行できるという自信を、密かに持っていたりもした。
思えばそれが油断だったのかも知れない。

そして今、私は壁際をカニ歩きしている次第である。
ああ、なんたる不覚。なんたる屈辱であろうか。
もちろん、前日までの準備段階に落ち度はなかった。
私の用意周到な機材手配と手早い配線作業のお陰で、前日までは影も形も無かった講習会場の
ネットワーク環境は今、完璧なまでに機能している。
急場凌ぎにかき集めたノートパソコン15台のセットアップも私自らの手で行なっただけのことは
あり、全く不具合無く稼動し続けている。
突然のことでスクリーンの手配をすっかり忘れていたために、液晶プロジェクタが映し出す説明
資料は何気に白い壁の表面に直に投影されていたりするが、ここら辺の些細な手違いは演出と
いう名のご愛嬌といったところであろう。
私の講師振りも立て板に水の流暢さであり、まさか前日はおろか当日になっても講習内容を
全く決めておらず話している言葉の全てがアドリブであろうとは、この講習会場に参集頂いて
いる方々の誰一人として夢にも思わないであろう。
全ては順調、全ては問題無。
講習会は何事もなく、粛々と進んでいるかのように見えた。

しかし、それは上辺だけのことだったのだ。
私がその事に気付いたのは、お昼を過ぎた頃の気だるい午後始めの時間帯だっただろうか。
もしその場に観察眼鋭い方が居られたなら私の顔が微かに蒼ざめた事に気付いたかも知れない。
私は心の動悸が激しくなるのを必死で抑え込みながら、現在自分が置かれている状況を
再確認すべく、素早く周囲に視線を走らせた。
大丈夫だ。
昼下がりという名の睡魔の魔力と、講義内容という名の元に私が唱え続けている睡眠呪文の
呪力との中で、講習を受けている方々の上の瞼は今や重力の為すがままになっている。
誰もこの私のこの秘密に気付いている様子は無い。

「……ということでこちらのウィンドウズOS上で起動したウェブブラウザのバックボタンに
 ついてはあくまでクライアントサイドアプリケーション内部の履歴処理を行なっているに
 過ぎないので、サーバサイドアプリケーションであるサーブレット側にはHTTPの
 リクエストとしては送信されない為、サービス内部のステイタスとご覧の画面上の表示とが
 シンクロしないままの状態に陥る訳で、その状態ではお手元での画面オペレーションと
 実際のシステムの動作との間に不整合が発生します……」

私は講義内容を更に眠気満載のものにすべく専門用語と横文字でそれ埋め尽くしながら、
誰にも気取られぬよう、ゆっくりと壁際に身を寄せるのであった。
これでいい。ここならば、誰も私の背後に回り込むことはできない。
背後の安全を確保した上で、私はもう一度、問題となっている部分にそっと手を触れた。
何時からこんなことになっていたのだろうか。
今朝からだろうか。いや、朝起きた時に確認したが、こうはなっていなかった筈だ。
もしかするとお昼休み、食事を取りに珍しく外食したのだが、そこで私の気付かない間に
こうなってしまったのかも知れない。
原因は何であろうか。
思い当る節はないが何か原因があるはずである。そうでなければこんなことになる筈がない。
私はどうすべきなのだろうか。
どうするもこうするも、一任された以上、現在遂行中のこの任務を今というこの時点で
放棄する訳にはいかない。
そんなことをすれば敵前逃亡の誹りは免れ得ない。
考えろ。考えるのだ。人間は考える葦なのだ。
私は更に睡眠呪文を強化しつつ、誰にも悟られぬよう対応策の検討を行なった。

やがて、私は意を決したかのように壁際でカニ歩きを始めたのである。
こうすれば、如何なる人物であろうとも私の背後を覗き見ることは不可能だからである。
私は絶対に、他人に背を向ける訳にはいかないのだ。
背を向けたら最後、私の人間としての尊厳、人類としての矜持、そして一人の人として歩み
続けて来たこの三十年という長いのか短いのかイマイチよく分からない人生の中で
培われてきた私という存在そのものが、脆くも崩れ去ることになるであろう。
「敵に背中を見せれば、即死刑」という恐るべき掟のもとにあった完璧超人たちの心境が、
今の私ならば手に取る様に分かると言っても過言ではない。
気分はまさにゴルゴ13。背後を取られることは即ち死を意味する。
例え壁際カニ歩きダイエットと勘違いされるようなことがあったとしても、私にはもっと
大切な、護らねばならない物があるのだ。

私のスーツのズボンのお尻の部分、そこに開いた見事な穴を、決して見られる訳にはいかない。

雨谷の庵は今日も雨。
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管理者:徳田雨窓