雨谷の庵

[0258] 死後の現世を覗き見る (2002/03/28)


[Home]
死に様、様々。

死んだ後のことをくよくよ考えこんだところでそれはナンセンスかも知れない。
死後の現世というものは死んでしまう本人にとってみれば、全く手の出しようのない部類に
属している訳で、それを他人がどうこうすることについて意見を挟むのはむしろ僭越な行為と
考えるべきなのかも知れない。
もちろん、死後の現世でなく死後の世界の方について色々考えるのはまあ、それとなく意味の
あることかも知れないが。死後の世界の有無は別として。
ということで、私がいまここで論壇に載せようとしているのは死後の現世の話である。
つまりは自分自身が死んでしまったあとに、この現世の人々は自分自身の残したものについて
色々とその処分に頭を悩ますことになるわけだが、そうしたことの一部分について、近頃
少しだけ意見を持つようになったといったようなことを書こうとしている次第である。
こう書くと、いままではまるで何も考えていない能天気な青年だったようにも読めてしまうが、
実際の話自分の死後のことなど余り考えたこともないというのが本音だったかも知れない。
せいぜい、部屋に山積みになっている大きなお友達向けの同人グッズが親族の手で処分されて
しまうのは嫌だなぁとか、その程度のことをおぼろげに考えていただけのような気が
しないでもない。もちろん気のせいかも知れないが。
それほど、私にとってまだ死というのは切実な問題ではなかったわけだし、今だもって死に
直面したという経験は無いし、だからそれなりに人生を歩んでいる中で死などというものを
自発的に意識して考察したりはしてこなかったといったところなのだろう。

ところが、最近は少しだけ私の心の世間での事情が違って来ていたりする。
最初に思いついたことは、人間の死というものは生物的な意味でのものだけではないといった
発想だったように思う。
もちろん生物的な意味での死、それは脳死や心臓死といった諸々の形態を含めてのものだが、
生物学的な死という状況は圧倒的な影響力でもって、死人本人の周辺社会に変化をもたらして
しまうわけである。
ところが、似たような変化を周囲に及ぼす現象は、何も生物的な死のみとは限らない。
もちろんこんな単純な発想は今まで色々な人が様々な言葉で書き綴っているのだろうが、
取りあえず前置きとしては書いておかなければ話が進まないので続けよう。
例えば職場において言えば退職した人というのは、その職場社会において、
死人とほぼ同義なことになる。
私事で申し訳ないが、先日私の同僚が会社を辞めた後、私がその業務を引き継いだのだが、
そんな彼を私が思い起こす場合、まるで死んでしまった人を思い起こすのとほとんど似たような
感覚が湧き上がって来ることに気がついた。
「ああ、あの時確か彼はこのプログラムのここの部分のことを気にしていたよなぁ」とか、
「そうそう。彼はこういう妙なswitch文を書くのが好きだったよねぇ」とか、そういうことを
考えているとき、確かに私の心の世間的では、彼は死者に類する扱いを受けているように
感じるのである。
他にも、引越しやら何やらで疎遠になった友人のことを話す際に無意識の内に死人扱いして
いたり、サイトを閉鎖してしまった雑文書きが某チャットで既に故人のような扱いを
受けていたりなど、この手の話題の具体例には事欠かないような気がするのだ。
社会的な死。
そういう言葉は使い古されているのだと思うが、私が最近考えていることはそれに関する
話題の中で、特にネット社会と呼ばれているものにおける一面についてである。

ネット社会というものをどう定義すれば良いのかは厳密には分からないが、とりあえずは
Webやメール、チャットといった情報伝達手段でもって緩やかにお互いの行動に影響を及ぼし
合う、あるひとまとまりの仮想人格集団とでもすればいいのだろう。
特色としては情報伝達手段の非力さゆえに文字ベースでの交流が主であることや、匿名性の
高さから複数人格を駆使できること、影響される行動の範囲がネットでのそれに限定されがちで
あることなどが挙げられるかも知れない。
ともかく、今一般的に広まりつつあるネット社会というものは「自分からの情報の発信」と
「他人からの情報の受信」を継続して行なっている場であり、その行為を通じて得た影響を
もとに発信受信の行動原理を継続的に変化させ続けている個人個人によって成り立っていると
いった感じのものだと思う。
情報の受発信だけでなく、それに行動原理が影響されるという点が、社会として形容される
所以なのではないかと思ったりもする。

ここで、そのネット社会での死について考えてみたい。
ネットに限らず社会的な死は、自分からの情報の発信が停止した場合に、周辺の人々から
死として認知されるのではないかと私は考えている。
つまり生物的な死が受発信のいずれも停止した状態であるのに対し、社会的な死は情報の
発信側の状態だけがポイントになるのではないだろうか。
つまりこのことは、社会的な死の場合には自分の死後の現世についての情報受信が可能であると
いうことを意味しているとも言えるかも知れない。
ただ、いくら社会的な死とはいっても例えば職場での退職といった場合には情報受信の方も
かなりの制限を受ける訳で、通常、自身の死後の現世を覗き見るということは出来ない。
しかしネットではどうだろうか。
ネットでは比較的、死後も情報受信だけを継続させる事が容易である。
自身の死後の現世を観察し、自分が忘れ去られていく様を眺めることも容易なのだ。
それが楽しいことなのかどうかは別として、ある種の自意識過剰な人々にとって、それは
もしかすると物凄く魅力的な状況なのかも知れない。
逆に、生物的な死によって受信側の機能を停止してしまった人でも、ネットに情報を
残していればしばらくの間はネット的な死を迎えることなく、継続して他人に影響を
与え続けるということも有り得るだろう。
こう考えると、ネット社会での死というものは生物学的なそれに比して多種多様であり、
色々と興味の尽きないものと言っても良いのかも知れない。
まだ整理し切れて居ないが、ネット社会的死に関する諸現象について私なりに少し
分類してみたので以下に列挙しておこうと思う。

○ネット幽霊

 自サイトを閉鎖するなどして死を迎えたにも関わらず、チャットや掲示板などの一時的な
 場に出現して皆を驚かせる人のこと。登場した場合、それを「化けて出た」と言う。
 特定のチャットや掲示板にしか現れない人のことは特にネット地縛霊と呼んだりする。
 他には特定の仮想人格にしつこく付きまとうという現象も確認されているが、そういうのは
 「霊に憑かれている」という。

○ネット精霊

 自サイトを閉鎖しチャットや掲示板にも現れないが、ネットの巡回だけは続けて居る人の
 こと。オフ会に現れたり、時々電話をかけてきたりする点が、完全な死人とは異なる。
 ネットでの言動について助言してくれるような有り難い精霊の場合には守護精霊と
 見なすこともある。

○ネット妖精

 自サイトは持っていないが、他人のサイトの掲示板などで仮想人格を形成している人。
 2ちゃんねらーはこの一種。掲示板荒しを行なう妖精は特に妖怪と呼ぶ。

○ネット水子

 自サイトを造るぞ〜造るぞ〜と言いながらいつまで経っても造ろうとしない人のこと。
 幽霊の一種だが、ネット社会的にはまだ人格が認知されていない点が異なる。

○ネットミイラ

 既に自サイトを閉鎖した人について、別のサイトで言及してあったり、リンクが貼られたり
 などして居る場合、その痕跡情報とでも呼べるものが元々の仮想人格を
 想起させることがある。こういう死人をミイラと呼び、ミイラを形作っている痕跡情報を
 ミイラの包帯と呼んだりする。大抵の場合、結構な数の人がミイラの復活を祈っている。

○ネットゾンビ

 自サイトは閉鎖していないものの、実は生物的には死んでしまっている人のこと。こういった
 状態は通常一時的だが、もしもその人が何らかの仕組みで定期的にサイトを更新して
 いたりなどすると、ゾンビの鮮度が落ちないこともある。

○ネット墓場

 過去のサイトを保管しているような奇特なサイトのこと。実際には閉鎖されてしまった
 サイトでも、キャッシュとかいう機能でもって比較的長期間保存されていることがある。
 ネット図書館という呼び名もあるようだが、私としては墓場と呼びたいところだ。

○ネット転生

 過去に形成してきた仮想人格を一旦放棄し、新たな場所で新たな人格を形成し直す事。
 サイト移転などの場合にこれが観察できることがある。なお、転生後も元居た場所の
 人々との縁を切らない場合、それは「前世からの縁」などと言われたりする。

○ネットイタコ

 ネット転生とは逆に、ネット上の人格は維持したまま、運営する人間が入れ替わること。
 そんなことが有り得るのかどうかは分からないが、死んだ姉さんに替わって妹が、といった
 シチュエーションは私的にかなり萌え萌えなので許す。何を許すのかは知らないが。

○ネット死んだふり

 一時的にネタとしてサイトを閉鎖したように見せかけること。エイプリルフールの際に
 時々見ることができる。なお、そのまま死んでしまった場合には、幽霊にでもならない限り
 通常死と区別がつかない。

う〜む。こんなところだろうか。
もっと詳しく考えれば、他にも色々ありそうな気がしないでもない。
ともあれ、ネットをさまよう無数の死人の冥福を祈りたい。
なむ〜。

雨谷の庵は今日も雨。
< Back |List| Next >
管理者:徳田雨窓