雨谷の庵

[0257] パソコンに向かって真剣な (2002/03/25)


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頑張れサラリーマン。

朝の通勤電車はいつも通りに込んでおり、今朝の私もまたまた吊革にぶら下がるようにして
立って居たりする訳である。
がたごとといつも変わらぬ音を立てて揺れる電車の中で、私の目の前の座席に座っている
その男だけが一風変わった光景として私の視界に居た。
男は、パソコンを広げていた。
パソコンとは言ってもデスクトップ型の、あの不恰好に大きい類のものではもちろんない。
その男が広げているのは所謂ノート型と世間様が呼んでいる、比較的小さ目のスリムな
パソコンであった。
男は───男、男と書いているとどうも堅苦しいので今後は彼のことをシンちゃんと呼ぶことに
しよう───シンちゃんは、そのパソコンに向かって真剣な眼差しを向け、なにやらしきりに
キーボードの辺りをカチャカチャと操作しているようだった。
仕事でもしているのだろうか?
見ればシンちゃんはおおよそ30代の後半、いかにも仕事の出来そうな課長さんといった感じの
風貌である。
恐らくこのように混雑した電車の中でさえも、シンちゃんにとっては仕事を行なうべき場所に
他ならないのかも知れない。
プルルルルル・・・
と突然、シンちゃんの携帯電話が鳴り響く。
「はいもしもし」
素早い動作でシンちゃんが携帯電話に返答する。
その間、実にコンマ5秒だろうか。実に手馴れている。
そのままシンちゃんしばらく電話に何事か話していた。
詳しいことは分からないが、部下からの報告内容に一つ一つ指示を出しているといったような
雰囲気のする会話であった。
まさに、シンちゃんお務めご苦労様とかいった処である。
昼間でさえ余り働きもしない私にしてみれば、こんな朝っぱらからしかも電車の中で、真面目に
仕事をしているシンちゃんは尊敬の対象でしかない。
凄いぞシンちゃん。日本の未来のために頑張ってくれ是非。
私は、シンちゃんへの賞賛の声を惜しまないのであった。
もちろん、心の中でだけだが。

そんなシンちゃんを眺めている内に、電車は駅に辿りついた。
下車する人々の群が一斉に扉から姿を消し、座席にはちらほらと空いた場所が出来ている。
私の目の前にも、ちょうど良い感じに席が一つ空いていた。
なんとそれは偶然にも、私の尊敬するエリートサラリーマン、シンちゃんの席の隣ではないか。
これは恐縮である。僥倖である。
日本の平和のために日々バリバリと仕事をこなしているであろうシンちゃんの仕事っぷりを、
この機会に是非とも拝見させて頂こうではないか。
そんな意味不明な意気込みを抱きつつ、私はシンちゃんの横に腰を下ろした。
何気に、目の前の老婦人が座りたそうな視線を私に投げかけているような気もしないではないが
それはあくまで気のせいであって私の行動に特に問題はないと信じている。
そもそも私とて、あと30年もすれば間違いなく老人なのだ。なんら問題はない。
それはともかく、私は尊敬するシンちゃんの仕事ぶりの一端を垣間見るべく、そのパソコンの
画面を覗きこんだ。
もちろん、私が見ているということに気づかれればシンちゃんの仕事に差し障りがあるかも
知れないので、なるべく気づかれないようにしなければならないところである。
私は帽子を目深に被り直し、寝入っているような姿勢を採ると、横目の端でシンちゃんの
様子を観察することにした。
決して、目の前の老婦人の非難めいた眼差しをかわすために狸寝入りをしていたわけでは
ないので、そこのところは切に御理解頂きたいものである。

それにしても相変わらず、シンちゃんはキーボードをカチャカチャと忙しげである。
いったい何をしているのだろう。
Wordで文章を書いているのだろうか。
いやいや、私の心の世間ではすっかりと切れ者のシンちゃんのことである。
Wordなどという、Micr○softの作った腐れソフトなど使ってはいないに違い無い。
男なら黙ってテキストエディタ。
それがGNUのEmacsででもあれば達人だし、さらにviであればそれは神である。
そうか。シンちゃんはもしかすると、viでシェルスクリプトを組み上げているに違い無い。
日々の業務で部下が苦労している部分を自動化して手間暇を省き、部下がより高度な仕事に
専念できる環境作りを志してでもいるのであろう。
ああ、なんていう部下想いな切れ者課長なのだろう。
もしもシンちゃんが私の上司であれば、私も今の数倍効率良く仕事が出来るに違い無い。
もちろん零を何倍したところで零にしかならないのだが、そこはそれ気分の問題と
いうこともあるだろうと、御理解頂ければ幸いである。
ともかく、心の中でそういった偏見に満ちた妄想を繰り広げながら、私は期待に満ちた眼差しで
シンちゃんのパソコンを注視したと思って頂きたい。
「えっ!?」
瞬間、私の喉から思わず驚きの呟きが漏れた。
私が目にしたものはviでもEmacsでもなく、ましてやWordでもなかったのである。
・・・・フリーセル!?
そう、シンちゃんが朝っぱらの混雑した電車の中で忙しげに熱中していたものは、
あろうことかトランプゲームの一種であるところのフリーセルとかいうソフトだったのである。
私の心の世間の中で、シンちゃんの前評判がガラガラと音を立てて崩れ落ちていく様が、
読者諸賢にはご想像頂けるであろうか。
これが同じゲームでも、ギャルゲーの類であるならばまた、私のシンちゃんに対する尊敬の
念も(別の意味で)増していたことであろう。
しかもそれが音声付ギャルゲーで、声優の皆様の萌え萌えな喘ぎ声を大音量で響かせてでも
居れば私の心の世間ではシンちゃんは神として君臨することになったはずである。
ところがどうだ。フリーセルときた。
見たところ、そのフリーセルはWindowsに標準でついてくるもののようである。
せめてネットで入手可能な凝ったフリーセルででもあればまた私の心証も違っていたかも
知れないが、シンちゃんが今熱中しているところのフリーセルでは、それは望むべくもない。
ていうか、仕事しろよシンちゃん。
自分の普段の勤務態度はこの際棚に上げて、私がシンちゃんに向かって思いきり
ツッコンだことは言うまでも無い。

もちろん心の中で、だ。

雨谷の庵は今日も雨。
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管理者:徳田雨窓