雨谷の庵

[0231] 川の中を泳ぐ (2002/01/02)


[Home]
「あの魚とあの魚は同じじゃのぅ、ばあさんや」

私は主人に六十年以上添い遂げて参りました。
皇紀二千六百六十二年となりまして元旦でございますが、私はつつがなく過ごして
おりますので、あまり心配して頂くようなこともございません。
最近は孫もこちらには来なくなりましたが、便りが無いのは元気の証拠とも
申しますから、多分のこと、無事に過ごしているのだろうと思います。
ただ、元旦くらいは訪ねてきて欲しい、ご先祖様の前で手を合わせて欲しいと思うのは、
年寄りの我侭なのでしょうか。
ともあれ、皆様と皆様のご家族が今後ともご健勝でありますよう、心から祈願しております。

夏以来、主人は体調を崩し、病院での生活を続けておりますが、それからは特に危ない
こともなく、無事に新年を迎えることが出来ました。
主人が倒れた折には色々とご心配などおかけしましたが、ひとまずはホッとしております。
見舞いに来て頂いた方など、ばたばたした状態でろくにお礼も言えませんでしたが、
ご無礼の程は御許し頂ければ幸いです。
皆様の心遣いの数々、心から有り難く思っております。
さて主人の病状ですが、お医者様のお話では脳に少しばかりの出血が見られるとのことで、
老衰で血管が脆くなっているのだろうということでありました。
人間が老いるのは自然の理、致し方ないこととはいえ、昔の健壮な主人を知る身としては
一抹ばかりの寂しさを禁じえないと言うのが正直なところです。
倒れてからというもの、主人はめっきりと肉が落ちてしまい、骨の形が皮に浮いて出るように
なりました。
出血の際に脚の神経をやられているとのことで、主人は歩くこともままならず、運動の不足が
筋を細らせているのだと聞かされました。
リハビリなどをすれば多少は改善されるかも知れないと主人も始めはいくらか努力したの
ですが、今年の秋口には甲斐なく寝たきりの状態になってしまっている次第であります。

その頃からでしょうか。
主人は天井をぼんやりと見上げることが多くなりました。

私も始めは何をしているのか分からなかったのですが、主人は天井をしばらく見上げた後、
宙に腕を持ち上げて何やらぶつぶつと呟いている様子でありました。
主人の視線の先を辿りましても、何があるという訳でなく、少々気味悪く思いながらも
主人の好きなようにさせておりました。
今思えば、だんだんと主人の意識はぼやけてきていたのかも知れません。
秋も深まり、病室の外が次第次第に寒々とした風に晒され始めました頃には、主人は
すっかり天井ばかりを見るようになっておりました。
「ばあさんや、あれは同じじゃと思うんじゃけぇど」
主人はある日、いつものように天井を指差しながら、私にそう言いました。
私はまた、いつものように主人の指差した先を見ました。
でも、そこに何かがあるというわけではないのです。
主人の入った病院は、老人専門の病院で、壁や床は適度に和風の趣向にあつらえてあります。
天井も木目の模様が入ったもので、多分合板だとは思うのですが、他の病院の冷たい
石天井とは違って、木造の温かみのようなものを感じさせてくれます。
「じいさんや、何が同じなんなら?」
私は主人に何度もそう尋ねたのですが、主人は繰り返し繰り返し、同じじゃ同じじゃと
呟くばかりでありました。

年の瀬も迫った頃、主人はまた奇妙なことをはじめました。
A4というのでしょうか、あの大きさの紙に、鉛筆で何やら線を書き込んでいるのです。
紙と鉛筆は、私のいない間に看護婦さんから貰ったのだそうです。
時折天井を見上げながら、主人は何日もその紙の上に線をただひたすらに
書き込んでおりました。
腕の力はとうの昔に萎えておりましたから、少し震えたような線しか引けないのですが、
それでも何度も何度も同じところをなぞるようにして、大変な時間をかけて一本の
線を引くのでありました。
線は一見無秩序に曲がりくねったもののように見えましたが、それでもどこかしら
規則正しく整然としているようにも見えました。
私は一体主人が何を描こうとしているのか見当もつきませんでしたが、好きなように
させておくのが良いと思い、傍でただその様子を眺めておりました。
同じ病室には他にも二人、ご老体の方が寝ているのですが、その世話をしている親族の
方は、主人の様子を見てとても羨ましかったそうです。
最近の医療は大変進歩しており、延命措置を施せば、寝たきりでも六年は命永らえるとの
ことですが、その二人方々はいずれも三年四年以上入院していると聞きました。
すっかり口もきけない程に弱っているその方々と比べ、紙に線を引く主人の姿は幾分でも
生きている者の行いであるかのように思えたのかも知れません。

大晦日は家の片付けのために戻っておりましたので、その日の主人のことは
存じておりません。
ただ、看護婦さんの話だと、いつもと変わりなく紙に線を引いていたとのことでありました。
元旦前の除夜の鐘が鳴り始める頃、主人は看護婦さんに私の居場所を尋ねたそうです。
看護婦さんが私が家に帰っていることを告げると、寂しそうにうなだれたそうです。
だからなのかも知れませんが、その朝私が病院に出向きますと、主人は嬉しそうに
私の前に紙を広げたのでありました。
「ほれ、見てみいや」
紙にはいつも見ていたのと同じ、無数の線が引かれておりました。
ただ、いつもと違うのは、紙の右上と左下に、赤いマーカーで丸がしてあることでした。
主人は震える手で、その赤い丸を交互に指差して、何度も天井を見上げたのでした。
「あの魚とあの魚は同じじゃのぅ、ばあさんや」

主人が描いていたのは、天井の木目模様だったのです。
木目の中の渦のような部分に、赤丸が付けてありました。
そしてそれはまるで、川の中を泳ぐ二匹の魚のように見えたのです。

雨谷の庵は今日も雨。
< Back |List| Next >
管理者:徳田雨窓