雨谷の庵

[0230] 小さな窓の中を流れ過ぎて (2001/12/27)


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やはり男はウィーンに住み、女は東京に住んでいた。

そして男は、物凄い貧乏だった。
何しろ、その日食べる物にも不自由するくらいに貧乏だった。
はるばる日本という極東の田舎から出てきたまでは良かったが、ウィーンの風は男にとって
厳しい冬を運んで来るだけだった。
クリスマスの飾り付けもまだ片付いていないような年末、商店街の人通りはまばらだった。
そんな商店街の一角にあるささやかな喫茶店で、男はバイトをしていた。
男がウィーンに来たのは音楽の勉強のためだったが、貧乏人の彼が働きもせず
音楽に打ち込むなど、それはあまりに現実離れした話だった。
「ケンタ、ちょっと来てくれないか」
喫茶店のマスターが、奥の部屋から男を呼んでいた。
男はカップを洗う手を止め、濡れた手を拭いながら部屋に向かった。
部屋では、マスターがパソコンを指差していた。
「ケンタ、これはどういう意味だい?」
パソコンは、囲碁ゲームを表示していた。
マスターは最近、囲碁にハマっていた。
男がウィーンに来たばかりで路頭に迷いかけていたところを拾ってくれたマスターは、
大の日本びいきだった。
マスターは男に、日本の文化や風習について根掘り葉掘り聞いてきた。
フジヤマは本当にあんなに美しいのか、最近のゲイシャガールはピカチューの格好を
しているというのは本当か、日本の子供は皆カラオケしているのか、エトセトラエトセトラ。
そして、マスターは男の話の中の囲碁に興味を持った。
もちろん将棋や麻雀にも関心を寄せたのだが、それらのルールは初老前のマスターが
覚えるには少しばかり複雑過ぎたようだった。
それに比べて囲碁は簡単だ。ただ、石を置けば良い。

「ケンタ、これは日本語じゃないのかな」
マスターの囲碁ゲームは、オンラインで対戦のできるものだった。
最初マスターは紙で作った碁盤で男と打っていたのだが、そのうちどこから手に
入れてきたのか、このネット対戦の囲碁ゲームを始めるようになっていた。
マスターが指差しているのは、そのゲームのチャット窓だった。
『Eiko: Anata ha Kekko Tuyoi to Omou.』(貴方は結構強いと思う)
そこにはローマ字でそう書かれていた。
Eiko・・・栄子だろうか、映子だろうか。
ともかく、それはどうやら日本のそれも女性のようだった。
「対戦したあと、俺の手筋の感想を聞いたんだ」
マスターは少しばかり嬉しそうだった。
「何て書いてある?俺は何て答えれば良い?」
「あなたのことを結構強いと言ってますよ、マスター」
「それは無いだろう!」
マスターは驚いたように両手を振った。
「俺は中押しで負けたんだぞ。彼がそんなことを言うはずは無い」
「彼女、ですよマスター。Eikoというのは日本では女性の名前です」
マスターはしばらく口をパクパクさせながら画面と男の顔を見比べていた。
とその時、チャット窓が新しいメッセージを表示した。
『Eiko: Joban wo Isoga nakereba, Motto Yoi.』(序盤を急がなければ、もっと良い)
「序盤を急がなければ、もっと良かったと言ってきてます」
「そ、そうなのか?だったら17の3の感想を聞いてくれないか」
マスターは、男にパソコンの前に座るように促した。
男はマスターの言葉を打ちこんだ。
『Karl: 17-3 ha Dou〜』(17の3はどう?)
『Eiko: Sokoga Yoku nai.』(そこが良くない)
「17の3が良くなかったと言ってます」
男がマスターに言葉を投げた時、チャット窓に次々と文字が流れ始めた。
『Eiko: Soko ni Utu to Te ga Semaku naru.』(そこに打つと手が狭くなる)
『Eiko: Mou Sukosi Te woHirogeta Houga Yoi.』(もう少し手を広げた方が良い)
『Eiko: Chuban no Tesuji ha Mondai nai.』(中盤の手筋は問題無い)
男はそれをマスターに通訳した。
「そうか。あれが手を狭くしていたか。良い手だと思ったんだが。う〜ん」
マスターはそのまま腕を組み、部屋の中をぐるぐると回り始めた。
ブツブツと、なにやら口の中で早口に呟いている。
男はマスターの様子を横目に、パソコンの画面の碁盤を見た。
確かに、マスターの完敗だった。
しかし、マスターが大きな下手を打ったようでも無い。
男は囲碁に少しばかり心得があったが、その彼の目から見てもEikoの棋力は相当の
もののように思えた。
『Karl: Anata ha Tuyoi. Pro ka〜』(貴方は強い。プロか?)
『Eiko: Chigau. Anata ha』(違う。貴方は)
と、そこで少しばかり間があった。
戸惑いのような雰囲気を、男は画面から感じたような気がした。
『Eiko: Nihon go, Umai.』(日本語、上手い)
男は知らず知らず苦笑いを浮かべていた。
そういえばここはウィーンだ。
日本語をローマ字で返してくるオーストリア人を、Eikoは不思議に思っているに違い無い。
男の脳裏で、パソコンの前に座って首を傾げている女の姿が浮かんでいた。
男はマスターの代わりにチャットしていることを告げ、そのままチャットに没頭した。

Eikoもまた、物凄い貧乏だということが分かった。
小説家を目指して田舎から東京に出てきたものの、頼りになる親類が居る訳でもなく、
毎日バイトに追われているという。
男は自分と似た境遇のEikoに、少しばかり共感を持ったのだろう。
彼女と男とのささやかな時間は、あっという間に過ぎていった。
『Eiko: Ima, Nihon ha Samui.』(今、日本は寒い)
『Eiko: Chan-Chan-ko ga Tebanase nai.』(ちゃんちゃんこが手放せない)
『Karl: Kotira mo Samui.』(こちらも寒い)
『Karl: Sutobu ga nainode, Totemo Samui.』(ストーブが無いので、とても寒い)
『Eiko: ?? Oosutoraria Nanoni?』(??オーストラリアなのに?)
『Eiko: Sotti ha natu deha?』(そっちは夏では?)
『Karl: Koko ha Oosutoria da.』(ここはオーストリアだ)
『Karl: Dakara, kotti mo Huyu.』(だから、こっちも冬)
そんな取り止めの無い会話が、チャットのための小さな窓の中を流れ過ぎていった。
時には苦笑しながら、時にはうなずきながら、男はEikoの送ってくる文字を追った。

男がマスターの視線に気づいたのは小一時間ほどしてからだったろうか。
マスターはいつの間にか、男の後ろでチャットの様子を眺めていたようだった。
「俺も、日本語を習おうかな」
チャットを終えて仕事に戻ろうとした男の横で、マスターは機嫌良さそうにそう言った。
「そうすればケンタが居なくても、日本の人に囲碁を教えてもらえる」
Eikoにチャットで指摘されたことが、余程の刺激だったのだろう。
マスターはそのあと喫茶店を閉めるまでの間、日本語について男に何度も質問した。
男もまた、機嫌良くマスターの問いに答えた。
ちょっとした小さな出会いだったが、男にとってEikoとの会話は久しぶりの日本語だった。
懐かしさを感じるとともに、何処か前向きになれるような、そんな気がしていた。
Eikoの何気にとぼけたような受け答えが、そんな気持ちを男に抱かせていたのかも知れない。
またいつか、一緒にチャットする日もあるだろうか。
それは実際にはマスター次第の話だったが、男には何故か、またEikoと語り合える日が
来るような、そんな気がしていた。

チャットの小窓だけが繋ぐ、小さな小さな二人の世界。
予感はいつも、足音も立てずにやってくる。

雨谷の庵は今日も雨。
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管理者:徳田雨窓