雨谷の庵

[0172] お隣の猫 (2001/07/23)
※猫雑文連鎖


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夏には時にこういうこともある。

常々お隣のご夫婦は少し変わっているなと思っていたような気がしないでもない。
ご主人はどうということの無い会社の勤め人だったと思う。
別段特に親しくしていた訳でも無いので詳しいことは知らないのだが、毎朝定刻には
家を出ているようだったし、夜更けには大抵帰って来ているようだった。
ウチの家内の話だと、奥さんは近くのスーパーのパートタイマーをやっていて、
人当たりのいい温厚な方だったらしい。
つまりは取りたてて特徴があるわけでもなさそうな、平々凡々とした夫婦だった訳だが、
私には何故か「変わったお隣さん」という印象があるのだ。
その理由をつらつらと考えるに、どうも原因はそのお隣さんの飼っている猫のせいである
ような気がし始めた。
基本的には白猫なのだが、何か妙な位置に茶色の斑があり、それがその猫の風貌を
妙な具合に印象付けていたように思う。
どう言えばいいのだろう。
頓狂というか、飄々というか。
猫というものはたいがい孤高な趣を持っていたりするものだが、その猫は一風変わった
独特の雰囲気を持っていたように、私は感じていた。
実際、その猫は近所の猫たちの間でも変わり者だったのではないだろうか。
いつ見ても、その猫はお隣の庭先で見掛ける事が出来た。
ぼんやりと庭をうろついていたかと思えば、時折後ろ足で立ち上がると
ぴょんぴょんと中空に背伸びをして見せる。
野良猫たちがお隣の塀の上を通り過ぎる時には何故か家の中に隠れてしまうようで、
その猫が喧嘩をしているところを私は見たことがなかった。
「貴方は、お隣の猫がお好きですね」
家内は時折そんなことを言って私をからかう。
しがない物書きをしている性だろうか、私は何かというと筆の足しになるような物事を
無意識のうちに探して回る癖がある。
新聞やテレビ放送は言わずもがな、近所の噂話や通りを走る子供たちの声、
そういったものを事細かに観察するのが習慣となっていた。
仕事柄といえばそうなるのだろうが、私の場合は半分趣味のようなものだった。
そんな私にとって、お隣の猫はいつ見ても飽きの来ない、格好の
観察対象だったのかも知れない。
「タックというのだそうですよ」
お隣の奥さんと多少付き合いがあるせいだろう、家内は時折その猫の素性などを仕入れては
私にそれを耳打ちしてくれた。
「猫というのはあちらの言葉でCatというでしょう?それを逆さまから読むのだそうです」
なるほど。
それを聞いたときの私は素直にそう思ってしまった。
ならば、犬はゴッドなのだろう。なにやら畏れ多い名前になってしまう。
鳥の類はドリブだろうか。どこぞのお笑い集団の様相だ。
金魚や熱帯魚はシフとでも呼べばいいのだろうか。こうなると意味不明だ。
そう考えるとタックというのは畏れ多くもお笑いじみてもおらず、程よくまとまりの良い
名前に思えてくるから、不思議と言えば不思議だ。
お隣のご夫婦は見た目に、もう何人かのお子さんがいてもおかしくない年齢のように
思ったが、どうやら子宝にはあまり縁の無い生活を送っているようだった。
家内の話だと、子供が欲しく無いわけではないが、どういうわけか懐妊には至らないまま
今に至っているのであるらしい。
お隣の奥さんも半ば子供については諦めているらしく、そのうち暮らしに余裕が
できたら養子でも貰うつもりですと、冗談めいたことを口にすることもあったという。
そのせいもあるのだろう、お隣の奥さんはタックを殊更可愛がっていたらしい。
だが、ご主人の方はちょっと違うようだった。
あれは何時の事だろう。
お隣がやけに慌しかったので、その理由を家内に尋ねたことがある。
「お身内にご不幸があったそうですよ」
その時以来、私には隣のご主人がタックのことを疎んじているように見えて仕方がなかった。
ある時など庭先で何時ものようにフラフラと中空に背伸びをしているタックを、
何か気味の悪いものでも見るかのような目で凝視しているご主人を見かけたことがある。
その時私は、ご主人は単に猫嫌いなのだろうとだけ思ったような記憶がある。
それが私の思い違いだったと分かるのは、それからしばらくしてのことになる。

けたたましく鳴った電話に出た家内が、真っ青になって私の書斎に飛び込んで来たのは
ある日の昼下がりの事だったと思う。
「お、お隣の奥様が怪我が事故に、会社で連絡が・・・」
おろおろと取り乱していたかと思うと、家内は何を思ったのかお隣に駆け込んだ。
しばらくお隣の玄関先で右往左往していたが、そのうち何かに思い至ったのだろう、
我が家の電話機の前にとって返すと何処かに連絡を付けている様だった。
家内のあまりの取り乱しようは今思い出しても相当なもので、電話を掛けながら、
何気にタックを小脇に抱えていたのには私も閉口した。
後でそのことを尋ねると、本人は無意識のうちにしていたことであるらしく、
一切何も覚えてはいなかった。
家内の小脇に抱えられて至極迷惑げな眼差しを向けていたそのタックの様子を、
私は今でもはっきりと思い出す事ができるというのに。

その日を境に、お隣のご主人の様子はとみにおかしくなっていったように思う。
最初は、最愛の伴侶を失った悲しみで自閉気味になっているのだろうぐらいに
思っていたが、しばらく観察していると、どうもそうでは無さそうだということに
私は気づき始めた。
結論からいうと、ご主人はタックを怖がっていたのだと思う。
特にタックのしぐさ、後ろ足で立ってふらふらと背伸びをするその行動を、
ご主人は一番嫌がっているようだった。
「貴方の気のせいですよ」
その事を話すと、家内はそれを笑いとばした。
もともと家内はお隣のご主人とはあまり話をした事も無いらしく、仲の良かった
奥さんが亡くなってからは、めっきりお隣とは疎遠になっているようだった。
猫のタックの姿を見かけなくなったのは、その後すぐだったと記憶している。
タックの居なくなったお隣の庭先は物悲しいくらいに静まり返ってしまった。
少なくとも、私にはそう思えて仕方がなかった。
お隣のご主人はというと、最近は家の戸も窓も閉め切って滅多に人前に
出る事が少なくなっており、タックが居なくなったことに気づいているのかどうかも、
私にはよく分からなかった。
ただ時折、夜更けに一人で遠出をすることがあるようで、今思えばそれは
タックを探しに出かけていたのかも知れない。

私がタックに再会したのはそれから1ヶ月以上もあとのことだった。
ここのところしばらくお隣のご主人の姿を見かけない、そんなことを考えていた
私の視界の端で、あのいつものふらふらとした背伸び姿が揺れていた。
私はしばらくその懐かしい日常に見入っていたが、なんとなく違和感を感じたような
気がしてもう少し目を凝らしてみた。
何か、白いふわふわとしたものが、タックの猫手のすぐ上を漂っていた。
私が見守るその前で、タックは唐突にその白いものに飛びつくと、見る間にそれを
吸い込んでしまった。
いや、それはもちろん私の見間違いだったのかも知れないが、少なくともそのときの
私には確かにそういう光景に見えたのだ。
白いものを吸い込み終えたタックはどことなく満足げだったように思う。
しばらくゆっくりとその尾を振っていたが、そのうちいつのまにか庭先から
姿が消えていた。
私はずっとタックを見続けていたつもりだったのだが、どうも何かの拍子に
目を離してしまったのかも知れない。
怪談の類であれば、タックは煙の如くかき消えてしまったと表現するところだと
思うのであるが、そのときの私はそうは考えたくないという頑な思いを
一生懸命に守ろうとしていたのかもしれない。

お隣のご主人のご不幸を家内から告げられたのは、その翌日のことだった。
それ以来、私がタックを見かけたことはない。

雨谷の庵は今日も雨。
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管理者:徳田雨窓