雨谷の庵

[0052] モチの青年時代は儚い (2000/02/10)


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だから、グニャグニャなのである。

モチというとアレである。
モチ米なるちょっと異端なお米を炊き、それをウスに放り込んで折檻した後に得られる、
あのグニャグニャとした物体のことである。
色は大抵白色であるが、中にはピンクや緑色といった不届き千万な色彩を放って
いるものも有る。
ちなみに私は断じて白を推挙する者である。
日本では古来からパンツや何から、ともかく色は白と決まっているではないか。
ぴ、ピンクなど言語道断である。Hだぞサクラモチ。頭おかしくないかワラビモチ。
人としてじっくりと人生を考え直したまへ。
そんな不届き者はこうしてくれる。えい。むしゃむしゃ。
うにゅ。アンコがいまいち。
そう言えば小さい頃、真っ黒なモチを食したことがあったが、アレは
一体何モチだったのであろうか。
少し気になったりもする。

なにしろグニャグニャなのである。
モチといえば、やはりあのグニャグニャ感がその特徴なのではなかろうか。
つきたてのモチ。それは「ねば〜〜」とも「ぐちゃ〜〜」とも言い難いような形態をしている。
それを通常は手のひら大に分割し、こねることで丸い形に整えるのである。
鏡モチ用などと称して人頭大の塊に整えることもあるが、気にしてはいけない。
このときモチの粘性に対抗するため、人類側は片栗粉を手の平に装着して作業に臨む。
素手などでモチに立ち向かってしまったりしては大変に危険である。
つきたてのアツアツのモチが肌に付着しようものなら、火傷すること請け合いである。
片栗粉はこのモチのネバネバ攻撃を防ぎ、なおかつモチの形を整える一助となる。
まさに一石二鳥、ビバ!片栗粉というやつである。

このようにして製作された、つきたてを丸めたモチはグニャグニャである。
私はこの状態のモチを食べることを以って、人生に一点の悔いなしであるような人物である。
特に白モチ。
アンコも豆も何も入っていない、純粋にモチだけで構成されるあのグニャグニャがこの上なく
好物であったりするのだ。
三度の飯よりもグニャグニャが好きとか言うやつである。
近年、このように美味しい物体が存在することを知らぬ無知なるお子様が増えていると聞く。
彼らはモチと聞くと、お店で売っている切り餅パックを思い起こすというではないか。
真空パックでちょ〜長持ちとかいうちょっといかがなものかといった感じのアレである。
あれは固い。固くてイカン。
モチたるもの、グニャグニャでなくてどうするか。
私は断じて、学校におけるグニャグニャ教育の導入を提言する者である。
すべての児童生徒学生諸君が、グニャグニャでもってモチと認識するよう、
国民的キャンペーンをも辞さない覚悟である。

さて。
そのグニャグニャのモチも、日が経つに従い水分蒸発の憂き目に遭うこととなる。
だんだん干からびるのだ。老いていくと言っても過言ではない。
あの若々しく瑞々しかった青年時代を謳歌した後、モチはいきなり老年期を
迎えてしまうのである。
いま、私の目の前にある物体がそれだ。
先週帰省した際に、実家より持ちかえったモチは既に年老いていた。
当たり前である。正月はすでに1ヶ月程も過去の出来事なのである。
モチの青年時代は儚いものなのである。なにしろモチはその人生の大半を
老人として過ごすのだ。
その表面はひび割れ、おしろい代わりの片栗粉は固化してパリパリである。
老いの証拠であろうか、かつては純白であった地肌に黒く染みのような斑点が。
え?黒い斑点?
こ、これはカビではないか。
このモチはカビている。おぉう、なんてこったいジーザス。

と言うことでこのたび、モチには寿命も有ることが判明した。
老人モチはやがて死の病に犯されてご臨終と相成るという事実が、詳しい調査結果から
結論付けられるに至ったのである。
さらばモチ。君のかつてのグニャグニャを、私は忘れないであろう。
思い出の中で生きよグニャグニャ。モチは死すとも、グニャグニャは永遠に不滅だ。

まあ結局、カビの部分は削ってしまえば大丈夫であろうということになった。
これを煮て、グチャグチャなドロドロにして食べれば宜しかろう。
かの有名な抗生物質も元はカビだったと言うし、万が一削り残しが
有ったとしても問題無かろう。
かえって、体内が殺菌されて健康に良いかもしれない。
ということで今夜のメニューはカビ入りモチのグチャグチャドロドロである。
いわゆる健康食品。それは違うだろ。

雨谷の庵は今日も雨。
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管理者:徳田雨窓